建築作品小委員会選定作品
地域と産業に寄り添うホスト的建築家
Architects as hosts staying close by locality and its industry

産業と向き合うことは地域と向き合うこと

「伝統産業の転用」と題した座談会において、関西の大学の建築系学科を卒業し、主に中部圏において産業と関わりを持ちながら活動を展開する、石野(信楽)・浅野(有松)・水野(常滑)ら三人の建築家(ここでは建築設計監理を業とするかどうかとは別に、建築の計画・設計・監理等に関する専門的素養を備えた人物という意味で用いることとする)の話を興味深く聞いた。はじめに、座談会参加者にとってはおそらく自明であったため、当日あえて言及されなかった前提をいくつか確認しておきたい。
まず「伝統産業」である。具体的に挙がっているのは、信楽と常滑の窯業および有松の染業(絞染め)である。ここでの「伝統」には、手工芸的か機械化されているかにかかわらず、前近代から長期間にわたり当地で持続している点に意味がある。信楽と常滑はどちらも日本六古窯に数えられ、窯の歴史は12世紀にさかのぼる。有松の染業はずっと新しく17世紀初の成立だが、それでも400年の蓄積がある。また「産業」とひと口にいえども、その分野は農林水産業から建設業・製造業・販売・サービス業まで様々にありうるが、ここでの三事例はいずれも基本的に製造業である。かつ地域と密接に結びついた、いわゆる「地場産業」である。
近世以前に形成された伝統型の地場産業は一般に、近代以降の産業に比して、深く広く地域に根ざしている。単に生産拠点が立地するにとどまらず、材料供給や生産・技術継承・製品の販売や使用まで、あらゆるフェイズにおいて強い地理的な制約や文脈の中で成り立っていた。そのような産業と地域の関係が、近代の波をくぐり数百年持続してきたため、地場産業は地域のアイデンティティと固く結びついているのである。
それゆえここで、建築家が伝統産業とどう向き合うのかと問うことは、地場産業を通じて地域とどう向き合うか、という問いにそのまま重なってくる。座談会の中で、三氏の語る「地域」のスケールが異なることが指摘されていたが、それは各々の地場産業が基盤とする地理的範囲が無意識的に反映されているためであろう。

地域・まちと産業の関係

三氏の活動の具体的なフィールドは、各地場産業の集積地としてのまちである。前近代における産業とまちの関係を、近世末から近代初期のまちのサンプリング集ともいえる重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)の特性種別[1]を手掛かりに、概観してみよう。
2017年3月現在114ある重伝建のうち、地場の産業と結びついたまちとされるのは、大森(鉱山)・吹屋(鉱山)・木曽平沢(漆工)・湯浅(醸造)・八本木宿(醸造)・竹原(製塩)・有田(製磁)・加悦(製織)・桐生新町(製織)・八日市護国(製蝋)・有松(染織)・金屋(鋳物)など12ある。いずれも製造業である。最も多い種別は物流拠点として繁栄した商家町であるが、これらの多くは近隣の地場産業の産物集散地でもあり、産業町の一種といってよい。美濃紙の集散地であった美濃町、阿波藍の脇町、塩の足助、生糸の千曲稲荷山などである。他に船運拠点の港町、サービス業の宿場町なども、ある程度近隣産物の集散機能を備えていたから、近世から近代にかけて、地場産業とセットになったまちの姿は、日本全国でごく一般的に見られるものであったといってよい。
しかし、近代における工業化と流通の発展は、このような伝統的地場産業と地域との、固定的であるが安定した関係の解消を可能とした。愛知県半田の醸造業ミツカンや常滑の製陶業伊奈製陶(INAX)など、近代に地場から全国的に展開した少数の事例もあるが、大部分の地場産業は産業構造の変化や国内外との競争の中で淘汰されていった。重伝建に限らず古い街並みの残るまちには、隆盛した産業を背景に立派な町が形成されたが、ある時期急速にその産業基盤を失い、まちを更新する余力もないままに、結果として歴史的街並みが残置された、というケースが少なくない。ベンガラ製造で栄えた吹屋はその典型例である。もちろん、湯浅の醤油醸造や木曽平沢の漆工芸のように、今も伝統的地場産業を生かし続けているまちもある。そこでは伝統産業の現代的転換や歴史的街並みや産業遺産を活かした観光化が、地域住民によりさまざまに試行されている。有松もその一つである。
やや余談になるかもしれないが、同種の問題は世界的にもしばしば見られる。例えば、信楽・常滑と同じく窯業を伝統的産業とする、タイのクレット島の事例がある。バンコク近郊にあるクレット島の窯業は200年近くの歴史を有し、古くは水瓶の生産で知られたが、時代の流れの中、小鉢や装飾用陶器などに主力製品を転換しながら主産業としての陶芸を維持してきた(このような経緯は信楽や常滑と同じである)。しかし20世紀末の洪水と経済危機により、島の産業は壊滅的打撃を受ける。ここから伝統的文化を継承しつつ経済的復興をはかる方策として、島の主産業を陶芸体験などを軸としたカルチャーツーリズムへと転換し成功をおさめた。そこには日本の大分発の「一村一品運動」の導入が大きな役割を果たしていたという[2]

地域・まちづくりと建築家

人口減や空き家問題が、全国的に取り沙汰される随分前から、地方圏の中小都市における共通の問題となってすでに久しい。地域の活力を保つには一定の社会増(転入)の創出が不可欠であるが、単に人が増えればよいのではなく、困難な条件の多い地域を住みこなし、そこに働きかけていくアクティブな転入者こそが求められ、まず地域が力のある転入者にとって魅力的なものでなければならない。これまでに各地で試みられてきた多くの事例が教えるのは、住民自らが地域やまちの価値を再認識・再評価し誇りをもつこと、いわば住民自身の「内なる地域の再生」が、その出発点となることである。
そのためには、地域の人の意志や行動力だけでなく、外部からの「まなざし」を含む多様な視点・価値観の交錯する人的交流の場の存在が、きわめて重要となる。また、誇りの拠り所になるとともに、再生されるべき地域やまちの魅力に実質的な基盤と骨格を与えるのは、多くの場合、歴史的に形成されてきた産業を含む生活文化であり、その器であり発露であるところの建築や街並みである。
ここで仮に上述の〈①人的交流の場〉〈②産業・文化〉〈③建築・街並み環境〉の3点を、地域やまちの再生的マネジメントに関わる主要な要素と考えた時、それらについて建築家はどのような役割を果たしているだろうか。建築家が中心的に担うのは、もちろん〈③建築・街並み環境〉に関する課題全般であるが、これまでにも地域やまちづくりの現場では、〈①人的交流の場〉の創出や運営において、その力を存分に発揮している姿はしばしば目撃されるところである。一方で〈②産業・文化〉について、とりわけ産業については担い手当事者にまかせ、その再編や改変には基本的にタッチしないケースが多いと思われる。

産業と密接にかかわる建築家の活動

座談会「伝統産業の転用」に参加した三氏の活動は、一般に建築家が手をつけない、この〈②産業・文化〉のゾーンに踏み込んでいる点に特色がある。その希少性への関心ゆえに今回の企画が構想されたのだろう。
信楽の石野は、創業400年という家業の窯元で陶器の製作からデザイン・発信まで製品プロデュース全般を手掛ける〈②〉。三者の中では最も産業の比重が髙い。産業の内に確固たるベースを備え、そこから異業種の仲間と「まちを編集する」活動として、アートや食・農業・福祉・教育・陶芸とを連携するイベントを展開する〈①〉。そしてその活動の一貫として、自社や地域の店舗・イベントスペースなどの改修デザインを手がけるのである〈③〉。総じていえば石野は、〈②産業・文化〉の現代的運用を主軸に〈①人的交流の場〉を連動させ、時々にその発露として〈③建築・街並み環境〉の再編を実現している。そこでは地域のトータルなブランディングを念頭においた複合的取組みの中に、産業も建築もアートも教育もが並置されている。地域が盛り上がることが自身の生活基盤を豊かにするという確信があり、「食い扶持は建築でも焼き物でもよい」という言葉が頼もしく響く。
有松の浅野は、デザインリサーチャーとして有松絞の染色メーカーと協働して、ワークショップや商品開発プロジェクトの管理などを手掛ける〈②〉。それと同時に、グラフィックデザイナーや建築家とともに旧東海道沿いの歴史的町家を拠点として整備しながら〈③〉、「有松に新しい入り口、ポータルをつくる」として、様々なゲストを招くトークイベントやワークショップ・展示企画を独自に、あるいは有松で活動する他組織や企業と共に、精力的に仕掛けている〈①〉。浅野は〈②産業・文化〉の懐に入るとともに、独自のアプローチで〈①人的交流の場〉を創出しつつ、産業の周辺領域(産業の中の動機や流れや人の関係)のデザインに取り組む。念頭にあるのは、大都市名古屋の住宅地と観光化に歩を進める重伝建地区とのはざまで揺れる、産業のまちとしての有松のアイデンティである。〈③建築・街並み環境〉については今のところ限定的であるが、その展開は視野に入っているだろう。それだけの体制を整えつつある。
常滑の水野は、祖父が創業したタイル工場の一角に身を置き、建築家の要望に応えたタイルの受注生産や開発を行いつつ、文字通り「山のような」自社製品の多面的な活用法を模索する〈②〉。その一方で、生業の軸足は従来型の建築設計業にあり、常滑一帯で新築住宅や店舗改修を堅実に手掛ける〈③〉。驚くのは中部国際空港の開設を契機としてつくったという、壮大な常滑の都市ビジョンである。自身が設計した集合住宅の連帯保証人になることでまちの未来が切実に感じられた、というのは本音だろう。座談会では触れられていないが、自身が改修を手掛けたカフェにゲストを招く無料のトークイベント「トコナメハブトーク」を定期的に主催してもいる〈①〉。要約すれば水野は、〈③建築・街並み環境〉を担う職能に軸足をおきながら、個人的また地域にとっての遺産である〈②産業・文化〉の現代的展開の模索と、〈①人的交流の場〉の運営とを、バランスよく並走させている。建築家とタイル生産者としての射程の重なりは、いまだ確かな像を結んでいるとは言えないが、建築を中心に据えながら、ミクロなパーツから都市的エリアまでをおさめる広角的な視野が、スケールの大きな展開を期待させる。

「ゲスト的建築家」から「ホスト的建築家」へ

三氏の活動を通覧してみると、〈②産業・文化〉への関与の度合いには幅があるが、共通するのはそれが散発的参加や協力ではなく、日常的生業の一部となっている点である。また〈①人的交流の場〉の中枢に位置し、活動リソースの少なくない部分を注いでいる点である。その役を彼らが揃って担いうるのは、建築行為における建築計画の包括的・構築的な役割(目的の設定から諸要求・諸条件をさぐり調整し具体的な形としてまとめる指針の全体的策定を行う…)と無関係ではないだろう。
彼らは住民かつ地場産業の担い手で(時に不動産経営者でも)あり、地域の人的交流のハブであり、さらに建築的環境の再編を担いうる専門家でもある。このように地域と利害を深く共有する建築家像を、観光人類学における「ゲスト/ホスト論」のフレームを援用して、「ホスト的建築家」と呼ぶことができるだろうか。ここでのホストとは、ゲストからの様々な(エキゾチシズムなどの抑圧的なものも含む)「まなざし」をとりいれながら、主体的に自己の文化を再構築し、したたかにゲストに対峙するホスト像である。
一方の「ゲスト的建築家」の典型は、東京を拠点として落下傘的に地方で活動するスター建築家であろう。彼らが日本各地に「作品」を産み捨てた時代はそれほど昔ではない。話題性や表層的な華やかさを求めた地域の側にも問題があった。もちろんゲストではあっても、真摯に地域の文脈を読み良質な仕事をする建築家の方が多数であると信じる。
それに対する「ホスト的建築家」とは、特定地域に継続的に密着し、コンサル的立場を越えてその人的ネットワークの一員となり、利害を地域と共有しながらエリアの将来像を見据え、住民や産業と連携協働しつつ、その専門性を発揮していくような存在である。古くは小布施における宮本忠長の仕事や、近年では中部に限っても、岐阜柳ヶ瀬のミユキデザインや名古屋那古野の市原正人の活動などが挙げられる。全国的に見ればさらに多くの動きがあり、今後ますますその数を増していくと考えられる。座談会参加の三氏は、地域のロコモーションたる産業を担う主体であり、期待される役割が最大級である点で(そのプレッシャーたるや如何ほどであろうか)、この流れの先端付近に位置付けられるだろう。彼らがいま産業の「中」にいるのは生得的な条件が大きいが、それは必ずしも必要条件ではなく、ロールモデルとしてはある程度一般性を備えてもいる。
地域がいかなる方向に向かうにせよ、建築やまちを含む物的環境が地域の重要な基盤であることに変わりはない。ただし時勢を見れば今後その再編は、大規模な新築や再開発ではなく、小さく部分的な更新の積み重ねが中心となるだろう。そこでは、普遍性や時代性といった大きな俯瞰的視点をもちながらも、ささやかな日常性とそれを支える裏側・周辺の活動や関係にまで思いを致すことのできる、ホスト的建築家の解像度の高いまなざしが求められるのである。

  1. 全国伝統的建造物群保存地区協議会による8分類。http://www.denken.gr.jp/

  2. 詳しくは、清水苗穂子「観光開発による伝統産業の復活:タイ・クレット島」(藤木庸介編「生きている文化遺産と観光」所収、学芸出版社、2010)を参照されたい。

柳沢究

建築家。博士(工学)。1975年神奈川県生まれ。2001年京都大学大学院工学研究科修士課程修了。2003年神戸芸術工科大学大学院・助手(〜2008)。2008年究建築研究室・代表。2012年−名城大学理工学部建築学科・准教授。

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