日時:2017/1/21(土)
場所:山田薬局(名古屋市緑区有松町)
登壇建築家:浅野翔(デザインリサーチャー|有松)、水野太史(水野太史建築設計事務所、水野製陶園ラボ|常滑)、石野啓太(明山窯、まち編集ユニットROOF|信楽)
司会:辻琢磨(403architecture [dajiba])
コメンテーター:水谷晃啓(豊橋技術科学大学講師)、柳沢究(名城大学准教授)
記録:川井操(滋賀県立大学助教)
企画趣旨
戦後の高度経済成長期の人口増加を経た現在、成熟社会、人口縮小が叫ばれる中、100年後には戦後のそれを下回ると予測されています。ただ、高度経済成長期の人口増大と21世紀の人口減少とは、抱き合わせにして長期的にみれば人口動態の特異点としての100年とみることも可能です。一方で、それ以前から長らく場所に根を張り続けるコンテクスト、例えば伝統産業から私達が学ぶことは少なくないはずです。そうした都市の歴史と産業にアプローチし、現代都市の持続可能性に転換することは、現在「だけ」の短期的な需要に左右されない都市への試みといえます。特に近世から交通の要所を多く持った中部地方や街道に接続する山間部では、当時から様々な伝統産業が発達しました。明治維新、戦後の大量生産を前提にした社会を経て尚、その産業を保っているまちが数多く存在します。今回は、そのような場所固有の文脈を引き受けながらも建築的思考によって現代的な価値の転用を試みる、信楽(窯業)、有松(染業)、常滑(窯業)、をフィールドに活動する3組の実践者に話を伺います。
辻琢磨(以下、辻):司会の辻です。本日はよろしくお願いします。早速ですが、本日のゲストであるお三方を簡単に紹介します。石野啓太さんは、1985年生まれ、信楽出身、滋賀県立大学を卒業後、家業である明山窯という窯元に在籍し窯業に携わる一方で、まち編集ユニットROOFでは信楽からのメディア発信を試みておられます。浅野翔さんは、1987年生まれ、名古屋育ち、京都工芸繊維大学大学院デザイン経営工学専攻を修了後、デザインリサーチャーとして有松を拠点に活動されています。水野太史さんは、1981年生まれ、常滑市出身であり、同じく京都工芸繊維大学を卒業され、現地で水野太史建築設計事務所と、家業でもある水野製陶園のプロジェクトである水野製陶園ラボを主催されています。続いて、それぞれがフィールドにされている地域について簡単にご紹介します。信楽町について、合併前の旧信楽町2004年時点で13,000人、甲賀市に合併後、現在人口90,000人ですが、人口密度は平方キロあたり200人、滋賀県東部の山間部に位置します。有松町は、名古屋市緑区の中心部に位置し、人口密度は平方キロあたり6,500人です。常滑市は、人口57,000人、人口密度平方キロあたり1,000人、名古屋近郊の地方都市です。立地条件から有松は都心部、常滑は地方都市、信楽は山間部という位置付けができます。このような立地の違いを考慮しつつ、三者に共通するのは、信楽と常滑は窯業、有松は染業というように、伝統産業に関わりが深いということです。こうした伝統産業へのアプローチを本日の登壇者の皆さんはそれぞれ独自の視点から深めており、産業と観光、都市戦略、そこでの建築家の役割といったトピックについてお話を伺えればと思っています。また、コメンテーターとしてお越しいただいた柳沢究さんは、名城大学建築学科の活動の中で、有松とのプロジェクトによる関わりも多く、伝統産業との関係を含め、客観的な見地からお話いただければと思います。同じくコメンテーターの水谷晃啓さんは、豊橋出身ということで、機械産業との差異と絡めつつ、中京圏エリアの中でどういった違いがあるのか、ご意見いただければと思います。以上、私からのガイダンスとなります。まずはお三方からそれぞれの活動についてお話を伺います。
石野啓太(以下、石野):ご紹介いただいたように、滋賀県立大学大学院を卒業後、馬場正尊さんの主宰するOPEN Aに就職して、主に建築設計に関わっていました。退職後、信楽に戻って家業の明山窯に入り、ブランドマネージャーとして陶器の制作、デザイン、online shopなどを担当しています。また2016年にまちを編集するユニットROOFをつくり、地元の仲間たちと活動しています。
400年の歴史を持つ明山陶業窯
明山窯は創業1622年で400年の歴史を持っています。これは、先代の石野伊助が幕府の御用茶壺師であったという記述が根拠となっています。また、江戸後期には石野伊兵衛が朝鮮通信使の応接用食器を幕府から任命を受けて作っていました。昭和以降は、花器の生産を主軸としながら機械轆轤を活かした商品を制作していました。バブル以降、次第に花器も売れなくなってきた中で、現在で多種多様な陶器を作っています。雛人形、プランター、傘立て、サーバー、水槽、手洗い、アクセサリー等々、どちらかというとプロダクト寄りの商品を制作しています。最近私が手掛けたものとして、家具メーカーのACTUS(SLOW HOUSEブランド)との協働による食器シリーズがあります。陶器に釉薬をかけるのではなく、土そのものの無垢な表情を生かした食器としました。家具に使われる無垢の樹種にも素材による違いがあるように、陶器にも土そのものにもこのような違いがあります。現在、売れ行きの調子も良く、今後ACTUSのパーマネント商品になる予定です(fig.1)。
これは《Ogama》という明山窯直営のお店です (fig.2)。使われなくなった登り窯と作業小屋を2010年頃に滋賀県立大学の学生と改修してギャラリー、ショップ、陶芸教室として運営しています。どちらかというと観光者向けのお店で「飾らない信楽を体験する場所」をコンセプトに運営しています。今後は、民泊やゲストハウスの併設を計画中です。
まちを編集するユニットROOF
まちを編集するユニットROOFについて紹介します。メンバーは地元の同世代の友人たちです。彼らは普段はグラフィックデザイン、映像作家、美術館職員などの業務に携わりながら一緒に活動をしています。信楽生産総額は1995年をピークに、今はその4分の1程度まで下がり続けています。こうした伝統産業の衰退が進む中で、もう一度原点に立ち返ってまちを見ようと考えました。実は信楽には陶器以外にも魅力的なコンテンツがたくさんあります。1つ目は「アート」です。滋賀県陶芸の森では、アーティストインレジデンスを古くから実践しています。世界60ヶ国の人々が入れ替わりで滞在してアート作品を作って来ました。古くは岡本太郎さんの太陽の塔のオブジェであるとか、横尾忠則さんや奈良美智さんのオブジェなども信楽で滞在して作られました。信楽の土は、大物作品に適した土であること、そして大物を作ってきたノウハウがまちにあることで、たくさんのアーティストが信楽から作品を生み出しています。2つ目は「福祉」です。しがらき青年寮という福祉業界では全国的に有名な施設があるのですが、ここでは1970年代から障がい者の方々が「まちで働き当たり前に暮らす」ことを目標に掲げ、彼らの暮らしを支援されてきました。全国に先駆けて取り組んだ結果、このまちには本当に福祉が溶け込んでいます。これも信楽の大きな特徴の一つです。3つ目は「教育」です。これは私の実体験ですが、陶器に触れる機会が小さい頃から多くありました。例えば、小学校の図工の時間では、本を読み聞かせてもらってそのイメージから作品オブジェを作る授業がありました。今思うとすごい情操教育を受けていたのだなと改めて感じます。他にも地元の信楽高校では、セラミック科とデザイン科という全国的にも珍しい学科があり、アート留学も行なっています。このように芸術に特化した教育が根付いています。最後は「農業」です。信楽は日本五大銘茶の一つ「朝宮茶」の産地としても有名です。このように、実は陶器以外にもいろんな魅力的なコンテンツが信楽にはあります。僕たちなりの地域固有の魅力をまとめてみると、①300年のものづくりに裏打ちされた文化的な土壌、②多様性、③福祉社会、④創造教育の場、⑤ローカルだけどグローバルに繋がる拠点が挙げられます。
「たぬきと陶器まち」という固定概念だけではなく、如何に複合的で豊かな暮らしを持つエリアイメージを伝えるのか、今あるものをどのように見立て直すのか「再編集」をキーワードにしながら、ここに住み働く自分たち自身が魅力的に感じるもの、自分発信のまちづくり、関わり方を模索しています。そうした中でいくつかのプロジェクトを実践してきました。
「土と手」プロジェクト(2015)
一昨年に「土と手」プロジェクトという、「食とアート」を繋ぐことをコンセプトにしたイベントを開催しました。当たり前のことですが農業も陶器も「土」と「手」で生み出されています。この二つを同列に並べて見せようというイベントです。これはその一環のアートイベント《SHIGARAKI INSPIRATION展》です(fig.3)。陶芸の森のレジデンスに来られた作家さんたちは、いくつか作品を残して帰国することが条件とされていています。その中で信楽のランドスケープにインスプレーションに受けた10作品をピックアップして展示しました。展示場所はまちなかにある工場跡、倉庫、後ほど紹介する改修したギャラリーの3箇所で行い、まちなかを巡るような展示を意識しました。
《おくど飯》というイベントでは、昔ながらのおくどを、窯元の人たちに作ってもらい、薪と土鍋で炊いたご飯を振る舞いました (fig.4)。信楽の作家さんたちの器を同時に販売して、その器で食べてもらう。お米、卵、お漬物、茶碗、すべてのものが信楽で作られています。シンプルだけど、信楽ならでは見せ方を意識しました。
この一環のプロジェクトとして、空き家になった陶器商店を地域に開かれたギャラリー兼イベントスペースに改修しました。《FUJIKI RENOVATION》(2015)です (fig.5)。この一連のイベントは陶芸の森開館25周年の企画であり、2つのコンセプトがありました。一つは「世界に発信」すること、もう一つは「まちに開く」ということでした。私たちは「まちに開く」というところで、陶芸の森の副館長から声をかけてもらい、企画展とリノベーションを手掛けることになりました。そこで滋賀県立大学川井研究室に協力をお願いし、ハーフビルド形式で、できる範囲は自分たちで解体改修をおこないました。予算は200万円前後というローコストで実施しました。今はこの場所を継続的に使えるような組織づくりをまちの人たちとつくっていて、ギャラリーやイベントの他にも地域おこし協力隊の拠点スペースなどとして利用されていく予定です。できるだけ「まちに開く」ように地域の人たちと仕組みづくりを考えています。
続いて《SHIGARAKI ART COMMUNICATION》を紹介します。これは昨年10月に滋賀県からの助成金を獲得して催した創作プロジェクトです (fig6.)。ここでは、しがらき青年寮の皆さんと地元の陶芸作家が、「言葉に頼らないコミュニケーション」をテーマに一緒に陶芸作品を作ったらどういったものが生み出されるかを試みました。意思疎通はもちろん難しいのですが、土を介して言葉に頼らないコミュニケーションを模索しました。もう一つはアメリカミシガン大学芸術スクールと地元小学校による英語教育プログラムです。ものづくりを通して英語を学ぶという教育プログラムのもと、ミシガン大学の学生と小学生がペアとなってものづくりを通しながら英語コミュニケーションを図るという試みでした。展示構成としては、ただ単に出来上がった作品を展示するのではなく、スチールや映像といったメディアを使いながら、作品が出来上がるまでの制作プロセスそのものに焦点を当て、丁寧に展示しました。そういった雑誌のような編集的な展示構成も狙いの一つでした。
信楽を「再編集」する
陶器以外の地域資源を見立て直すこと、つまりこれまでと違う切り口でまちをどう魅せれるかに焦点をあてて活動しています。信楽には青年寮や作家さん、制作のためのものづくりの環境が整っています。そして先ほど紹介した《SHIGARAKI ART COMMUNICATION》のようなことが、自然にできてしまうところこそが、信楽のポテンシャルであり魅力の一つです。今後の活動としては、企画展として、「曜変天目」[1]研究家であり釉薬研究者である高井龍三さんの「曜変天目:高井龍三展(仮)」を企画しています。改修プロジェクトとして、地域に新しくできるパン屋「YAKUME(仮)」の内装設計などもしています。その他にも企画プロジェクトがいくつか進んでいますが、一つ一つは小さなプロジェクトでアウトプットも様々ですが、何か共通のビジョンを共有した物事の累積の上に、新しい場所のイメージが立ち現れてくると思っていますので、少し長い目でつくっていければと思います。
浅野翔(以下、浅野):今日はデザインリサーチャーとしての活動とARIMATSU PORTAL; PROJECTというグループ活動の2つをお話します。
私は京都工芸繊維大学で建築を学びました。造形工学課程の学部は、佐々木まちづくり研究室でワークショップ手法などを用いた市民参加のまちづくりを学び、大学院では、ワークスペースを主な研究対象とした環境デザイン経営研究室で障害者の働く場所、障害者就労施設の研究をしていました。大学院修了後、実家の名古屋市緑区に戻り、フリーランスとして仕事を始めました。その際に出会ったのが有松の久野染工場です。久野染工場のブランディングに取り組んでいたところ、修士研究の際にお世話になった奈良県にある財団法人「たんぽぽの家」から相談がありました。《GoodJob! プロジェクト》のなかで、「愛知県の伝統工芸で障害のある人たちが働く場所をつくりたい」というもので、久野染工場との協働からプロジェクトは始まりました。私はワークショップの設計、デザイナーや職人との調整、プロジェクトのディレクションを担当していました。3ヶ月間という短い期間の中で、決まった制作物をつくり出していくのではなく、複数回のワークショップから制作物を決めていく挑戦的な試みでした。「できることから、できるものを探る」プロセスを経て見えてきたことは、染色によって生み出される柄は毎回異なること、福祉施設の人と職人とデザイナーで「良さ」の価値観が異なることでした。柄の再現度を求める絞染色職人に対して、一点ものの価値を見出す福祉施設。絞り染色は性質上、腕のいい職人でも柄の再現度は80パーセント前後です。あまりにも柄が狂ってしまうと商品の価値を下げてしまいますが、同じ柄ならば印刷することと変わりません。両者が納得するものをつくるために、作業工程や補助する道具、スタッフと利用者の声のかけ方などを見直し、ようやく2つの柄にきまりました。次にこのテキスタイルを用いた製品をつくる際に、参考にしたのが有松で制作される浴衣です。絞染めを施した1反13mの生地から仕立てられているという歴史を踏襲し、1枚の大きな生地をほぼそのまま使用する商品をつくること。そうした工程を踏まえて出来上がったものが、板締め絞りと柳絞りのレインポンチョでした。ワークショップを通して、参加者の間にある微妙な価値観のズレを明らかにし、工程を見出したり対話を重ねる中でギャップを埋めて価値を高めていく。ある種の通訳をしながら、デザインに落としてくディレクションをしていました (fig.7)。《GoodJob! プロジェクト》でプロトタイピングを行うなかで、伝統工芸における産業衰退、職人の高齢化、後継者不足、といった問題に対して、福祉施設における新しい働き方や新たな職人像を描くことができたと考えています。
ARIMATSU PORTAL; PROJECT (アリマツポータルプロジェクト 以下、APP)
APPは、閉塞感のある現場を乗り越えようと有松に新しい入り口、ポータルをつくろうと建築家、グラフィックデザイナー、当初は絞染職人と4人で2014年にスタートした活動です。トークイベントやワークショプ、展示などを行う中で、地域・産業・建築やまちとの関わり方を再考する試みです。例えば、有松では絞染めを体験できますが、その柄の出方は偶然性に委ねられており、「次はもっといいものをつくりたい、私だけの柄をつくりたい」といった要望に答えるのが難しいです。また、分業化が進んだ有松では、一連の工程を体験するワークショップを行っても、どの部分が柄に影響を出しているのか理解しにくい現状があります。そこで、柄に影響する圧力をかける方法を改善することで、この課題を解決できないかと考えました。有松絞りは、大きく3種類の圧力の掛け方、「ぬう」「くくる」「はさむ」という手法があります。熟練度の求められる「ぬう」や「くくる」方法は、繰り返しの練習が求められます。一方で、「はさむ」方法は、手作業の熟練度からある程度離れ、治具のカタチによって柄を決めることができます。そのため、ワークショップでは、板で布を挟んで絞り染色をする「板締め絞り」の治具である板をデザインすることで、手ぬぐいをデザインすることを行いました (fig.8)。参加者は染め上がった手ぬぐいを見ながら、次は「もっと板の穴を大きくしよう」「自由曲線を使った有機的な柄に挑戦したい」など、治具を切り出すカットラインの修正からもう一度参加する方法を模索しているようでした。また、ワークショップ後は、新しい染色の柄が生まれることを期待してカットラインデータをThingiverse.comで公開しています。1回きりの「手ぬぐいをつくるワークショップ」ではなく、「手ぬぐいをつくる「道具」をつくるワークショップ」「手ぬぐいをつくる「環境」をつくるワークショップ」になったと思います。
STOCK YARD ARIMATSU (2016)
有松は、旧東海道に面した町家が続くまち並みと絞り染色産業という営みが残っていることが評価され、重要伝統的建造物保存地区に2016年7月に指定されました。しかし、近年は産業構造の変化により、問屋や職人が暮らす長屋は少なくなり、空間資源 (ストック) が目立ち始めています。遊休不動産の活用はまち並みを残すひとつの手段であると考え、無印良品の綿製品を絞染色するワークショップと遊休不動産活用について議論するトークイベントを行いました。絞染色加工をすることができる有松にとって、綿製品を扱う無印良品は貯蔵庫 (ストックヤード) であると読み替え、《STOCK YARD ARIMATSU》と名付けました。まり木綿を講師に迎えたワークショップは、旧東海道に面した土間で行われたため、行き交う人が次々と覗き込んできます。かつては通りに問屋が立ち並び、お土産を購入する旅人で賑わっていたと聞きます。現在は、絞り祭りの際に、くくり職人が道沿いで作業をしていたりするなど、作業工程や絞り染め体験を表に出すことで、新たな賑わいにつながっているようです。土間を開くことや無印良品の製品を使うなど、空間や生産をオープンすることで有松という歴史的なまちに、利用者や企業が関わるきっかけとなりました (fig.9)。
有松をうばえ展 (2016)
同様に有松らしさとは何かを考えていくなかで、実施した展示が《有松をうばえ展》です。これは、有松らしさをうばうことでアイデンティティを再考する試みです。江戸時代は松林が生い茂り、旅人を襲う盗賊から守るために開村された有松。名前の由来はまさに「松」でした。開発される中で切り倒されていく「松」は数が少なくなり、絞りや古いまち並みばかりが目立つなどどこか無下に扱われているようでした。一部には参加型の展示を行い、有松のまちを出歩き、松を探すなかで起伏のある地形や表の商店と裏の職人といったまちの構造を体験してもらうものを行いました(fig.10)。また、重要伝統建造物は建物が大きく、敷地も広い。緑区中でも3番目に高齢化が進む有松は今後、相続が原因で伝統的な建物がなくなっていく可能性があると考えられます。すでに手放された建物はすぐに潰され、ミニ開発の対象となっています。展示会場には、重伝建が更地となった平行世界にある宇波江 (うばえ) 不動産を開き、すべてが売り出された悲惨な未来を描きました。展示の主題は、そうならないためにどうしたらいいのかです。私たちが事務所として借りる築200年の山田薬局は、土地面積が150坪程度で建物はその半分ほど。2階建の山田薬局を仮にシェアできる物件として運用するならば、どのような借り方ができるのか。不動産収入はどうなるかなどを算出し、現実的な保存と活用の方法を考えたものです。
ごえんの投票 (2016)
最後に紹介するのは、「ごえんの投票」です。2017年1月15日、名古屋市観光推進室による平成28年度の委託事業をJTB中部に委託するカタチで山田薬局の一部が桶狭間・有松の観光案内所として開かれました。地域も行政も、有松をどのようなまちとしていくのかビジョンを描けれていないのが現状です。産地として、住宅地として、観光地としての未来を考えるために、来訪者や生活者が主体的に何をしたいのかを問いかける投票ボードを設置しました (fig.11)。1回目に設置した「有松でしたいこと」に対して、「遊ぶこと」と「暮らすこと」が同票数、次いで、「紹介すること」、「働くこと」という結果でした。この結果を受け、2回目の投票ではでは、有松というエリアではなく「山田薬局でしたいこと」を問いかけました。1回目は遊びと暮らしに対する投票が多かったのですが、「飲食店」が最も多く、次いで「物販店」という結果となりました。これらの結果から、有松での遊びや暮らしを支える滞在先が少ないことが考えられます。そして、山田薬局など有松に点在する遊休不動産を活用することが、ニーズとして現れているようです。エリア内外に求められる有松の将来を考えるきっかけとして設置した投票ボードは、地域の人に議論を呼び、ボードを前に話をしている人いました。名古屋市の事業である観光案内所もいつまで続くかはわかりません。このようなささやかな取り組みが地域に参画する人を呼ぶきっかけとして機能することを期待しています。
水野太史(以下、水野):今日は常滑にお越しいただき水野製陶園の工場を見ていただきましたが、建築設計から水野製陶園ラボの活動に至る経緯をすこしお話できればと思います。まず紹介するのは、大学3回生の時に休学して常滑の賃貸集合住宅プロジェクト「本町の集合住宅」です。それが常滑と関わる大きなきっかけでした。
《本町の集合住宅》(2002~)
当時、常滑のまちでは2005年の中部国際空港の開港を控え、マンション建設業者が頻繁にセールスに来ていました。至る所で古い焼き物工場や屋敷などが取り壊され、どこの郊外でも目にするような単身者向け集合住宅が無秩序に建ちはじめていました。そんな中で祖母が所有する土地の相続税対策として、父方の5人兄弟姉妹が賃貸集合住宅の計画を進めていました。2002年末に帰郷した際にたまたまこの計画に遭遇しました。そこで親族を強引に説得して、私が中心になってこの計画を進めていくことになりました。計画を手がける条件として、設計だけでなく、事業計画の立案、融資の打診、抵当権の設定、入居者の募集など、事業に関わるすべての業務を引き受けることになりました。収益面でも妥協することなく、何かこの場所にふさわしい賃貸集合住宅のかたちを証明したいという気持ちが強くありました。結果としてRC造の長屋という案にたどり着くのですが、庭兼駐車場の外構床には、水野製陶園の製品である「透水レンガ」を使用しました (fig.12)。建物の外壁・外構床の仕上げは、常滑での仕上げの“在りかた”を倣ったものです。例えば、敷地周辺にも多く残る古い焼き物工場は、建物自体をタイルなどの製品で装飾することは無いですが、そのかわりに不良の陶器製品や陶片などを外構床に敷き詰めて使っています。外構床というもっともタフに使用される場所にこそ焼きものを使い、その性能を存分に発揮させる、私にはそういう外部の仕上げ方がとても豊かなものに感じられました。他には各戸の室番号、建物のネームプレート、キッチン・浴室のタイル等を水野製陶園の工場を使って自分で手を動かして制作しました。敷地北側の鉄製の側溝蓋も、水野製陶園の工場のメンテ用の設備を使い、じぶんで作りました。チェッカープレートを切断して裏に鉄製アングルを溶接しています。このプロジェクトを通して、水野製陶園の焼き物と工場の可能性を強く感じ、水野製陶園の現状を知るきっかけにもなりました。
《トコナメレポート2010》(2006~)
賃貸集合住宅プロジェクトの後、東京に移り住み、いくつかの設計事務所等でアルバイトをして過ごしていましたが、事務所内での議論は何か机上の空論のように感じることが多くありました。当時、そのフラストレーションを、夜な夜な常滑市の都市計画を考えることにぶつけていました。それが《トコナメレポート2010》です (fig.13)。中部国際空港開港(2005)以降の常滑のまちの可能性を自分なりに追求したプロジェクトです。私自身が先ほど紹介した賃貸集合住宅の35年ローンの連帯保証人になったこともあって、集合住宅の建つまちの将来を考えることに切実さもありました。帰省した際に、たまたま地元の友人に《トコナメレポート2010》を見せたことがきっかけとなり、友人の知人の市議会議員、さらには市長に直接プレゼンする機会を得ました。具体的に何かが動き出すことになったわけではないですが、この時に何か手応えを感じました。その後、常滑の友人からの住宅の設計依頼をきっかけに常滑に戻り事務所を構えました。
《水野製陶園ラボ》(2014~)
株式会社水野製陶園の主な製品は、湿式のレンガやタイルと、粘土や釉薬で、原料づくりから焼成まで一貫製造しています。常滑に戻った当初は、自身が設計する建築で水野製陶園の製品を採用するところから関わり始めましたが、建築家の視点からもっと力になれるのではないかと考えました。そこで社長にも働きかけて、2014年に製陶園の「技術」「資材」「空間」を活かし、世に開いていくプロジェクト「水野製陶園ラボ」をスタートしました (fig.14)。
「技術」の面では、土づくりや釉薬の高い技術を活かすべく、焼きものの質感を大切にした湿式の施釉タイルや陶器を試験・開発しています。また、建築家の注文に応えたオリジナルタイルの制作もしています。これは木村松本建築設計事務所の設計した物件の浴室のために制作したタイルです(fig.15)。このタイルは水野製陶園の在庫の既製品の無釉タイルに新たな釉薬をかけて再焼きして作った施釉タイルです。つまりリノベーションしたタイルです。通常の施釉タイルは一回の焼成で製品となりますが、二回焼成するからこその性質を利用することで、独特の質感を生み出しています。また、既製のタイルに新たな釉薬をかける方法をとることで、少量発注のオリジナルタイルの製作を可能にしています。在庫のタイルを利用することでコストメリットもあります。ここでは、手で釉薬をかけることで深みのあるムラをつくることや、再焼きならではのタイルの際の下地が強調される性質を利用して、下地と釉薬のコンビネーションを考慮して制作しました。
これは保育園の改修のための外壁の特注タイルです(fig.16)。改修設計を手がけた建築家さんが作成した動植物の図柄を釉薬で焼き付けています。予算のこともあり、図柄のタイルを散らすように使ったり、図柄を焼き付けるための型紙は、工場で製作するのではなく、ワークショップ形式で園児たちに動植物のかたちをくりぬいてもらいました。焼き付ける釉薬については建築家のイメージを聞いて、窯変する釉薬を用いて焼き物らしい質感に焼き上げました。じぶんが設計をしているからこそ設計者の意図や与条件を汲んでタイルの作りかたや使いかたを提案できることは水野製陶園ラボの強みだと思っています。
これは半田市亀崎地区の休憩所です(fig.17)。周辺で生活する人たちと、観光客が利用することを想定していて、この地域に特徴的な細い道「せこ道」に面した休憩所を設計・製作しました。使われなくなった古井戸を休憩所の場所に選んで、既存の井戸とその蓋をテーブルに見立てて、それに付属するレンガのベンチを新たに設置しました。かつて人々の生活の中にあった井戸の「水」をテーマにして、「水」を想起させるような青い釉薬をタイルとレンガの天面に焼き付けました。天面に施釉することで汚れを防止する機能ももたせています。タイルの下地はワイヤーでカットしたさざ波のような凹凸のあるものを使用し、それに釉薬をかけることで、水面を感じさせるようなテクスチャーをつくりだしています。ここではコンセプト、休憩所のデザイン、タイル・レンガの製作まで総合的に手がけました。
「資材」の面では、例えば「透水レンガ」という製品の販促に建築家の視点から取り組んでいます。水野製陶園では、景気が低迷し注文が大きく減少した時期に、自社製品の中で最も普遍的な製品であろう透水レンガを大量に生産しました。今でも敷地内には透水レンガがたくさん残されています (fig.18)。プロダクトとして魅力のある製品なので、さまざまな建築家の人達に現代的なアイデアで使ってもらうことで、建材としての可能性を引き出しながら、広めていきたいと考えています。
「空間」の面では、工場の中で使われなくなった場所の活用方法を考え実践しています。例えば50年以上前に陶製ブロックを用いて社員が手づくりした10棟の元社宅を再活用するプロジェクトを始めました。有志参加のワークショップも開催して、場所の可能性を探りながら整備を進めています。また現在、使われなくなった更衣室を水野製陶園ラボのアトリエとして改装中です。水野製陶園の環境には、自由で合理的なDIY精神が息づいています。
元々この辺りは木も畑もないような荒地でしたが、工場の建設当時に周囲に植林をして、その樹木が育ち、今では森の中に工場があるようです。創業者である祖父は、「よい環境をつくる」ということを積極的に考えていました。例えば社宅には当時は珍しかった風呂や水洗トイレが完備してありました。「園」という名称にはそういったユートピア的な精神が多分に込められていると思います。土という自然素材から製品を生産し、じぶんたちの暮らしを豊かにするために使う。工場内にその循環があります。水野製陶園ラボでは、そうした精神を受け継ぎながら、環境とテクノロジーと人間の理想的な未来を考え、実践していきたいと思っています。
建築家とエリアマネージメント
辻:お三方とも対象としている空間範囲が微妙に異なっています。例えば水野さんであれば、建築家としての空間の扱い方と、伝統産業から見たときの空間の扱い方とでは、何か違いがありますか?あるとしたら、どのように棲み分けをされているのでしょうか?
水野:水野太史建築設計事務所と水野製陶園ラボでは少し位置づけが違うかもしれません。設計事務所としては、都市計画やまちづくりなど、より公共性のあるプロジェクトまで扱いたいと考えています。一方で水野製陶園では、民間企業の前提として今後経営的にどうしていくべきかという切実な問題がありますが、窯業の産地で、ものづくりのインフラが身近な工場のポテンシャルを現代的にどう活かせるのかを追求したいと考えています。
辻:建築家としてはより広い範囲を扱い、家業の窯業ではもう少しスケールを落として身の回りから考えられているという反転は非常に興味深いですね。同時に、石野さんや水野さんは、製造者側であることを生かしながらエリアブランディングしていく建築家としてまち全体を見ている感じがあります。
一方で浅野さんは少し立場が違います。名古屋の都心部ということもありますが、地域全体というよりももう少し範囲を絞っているように感じました。また、製造者でも建築家でもないもう少し客観的な視点で有松のブランディングを試みています。有松という範囲や染業に対してどういう眼差しを持っていますか?
浅野:私はどちらかといえば生活者の視点が強いと思っています。有松も伝統工芸から近代産業へと変わった時に、まちの構造は大きく変わっていきました。間口が広く奥行きのある絞問屋や染色屋が減った一方で、ベッドタウンである緑区は立地の好条件からサラリーマンの住宅地を担いました。現在、有松は産業のまちとして残していくのか、生活の豊かさを求める住宅地か、あるいは重伝建選定を受けた観光地として生まれ変わるのか過渡期といえます。私はもう一度、生活者視点で働く場所をどう作っていくのか、関わる人をどう根付かせるのかに関心があります。したがって、市民参画をエリアマネージメントの視点から引き起こしていく社会に意識があります。
縮退ではなく濃縮された時代へ
辻:人口減少の中では伝統産業であっても、だからこそ、需要の落ち込みという現実と向き合わなければいけません。イノベーションによって、新しい需要を産まなければならないということがあると思います。そのような文脈においては、短期的な商品開発よりも根本的な枠組みそのものへの視座がイノベーションに不可欠です。例えば、消費する需要ではなく、つくる、学ぶ需要は伝統産業のポテンシャルを引き延ばしますよね。今後どのように新しい需要にアプローチするのか教えてください。
水野:私の企画運営するトークイベントで哲学者の鞍田崇さん[2]が示唆的な表現をされていました。「人口減少を縮退やシュリンクだと言うと、すごくネガティブなイメージを与えてしまう。濃縮といったら良いのではないか。」僕もそういうことをすごく感じています。人口が減ることは大変な問題ではあるけど、一方ではじめて個人の豊かさを追求できる時代になったともいえると思います。地方都市にある産業遺産というものは、そのインフラのメンテナンスは大変ではあるけど、そういう価値のあるものが身近に残されています。それをうまく運営したり、使う意欲を持ったり、アイデアがあればとても可能性のある時代です。話を戻しますが、例えば先日訪れた北欧では水道管一つとってもよくできていました。過酷な自然環境ということもあるけど、イニシャルコストをかけて良いものを長く使うということが、インフラ部品などの細部からも読み取れました。水野製陶園ラボでは、良いものを大切に使う需要を作ろうとしています。使い捨てではない適切な手間のかかったタイルをつくることもその一つです。良いものづくりによって豊かさの底上げをしていくようなイメージでしょうか。
石野:「濃縮」という感覚はすごくわかります。信楽もバブル時代には、大量生産が進み、良くも悪くもつくるキャパシティを大きく超えていたと思います。量産に応えるために技術の効率化・簡略化が重視され、同時に手間のかかる技術は後退し品質も決して良くなかった。親世代の話を聞いていると、本当に考えている暇がないほど数をつくることに精一杯だったという話をよく聞きます。当時はそれでよかったと思いますが、俯瞰してみると、やはりそこで失ったものも大きかったと感じています。しかし、1960年以前と同じ生産額にまで減額してくるこれからは、より手の掛かった工藝的な部分に戻ってくると思っています。生産量が減った分一つ一つの製品にかける時間や密度感を上げることができる。実際に1960年代頃までの信楽焼は技術的にも手間をかけたいいものが多いです。
浅野:人口減少やエネルギーの枯渇が進む中で、消費者自身もひとりのユーザーとしてつくりながら考えることが社会的に求められてきていることを実感しています。生産への参画可能性が高いエリアは、余暇の時間をより積極的に活用できる豊かな生活を生み出す環境として価値が高いのではないでしょうか。例えば、有松の無印良品で買った綿製品を「これはこう染めて、ああ使おう。」という状況も今後は増えてくると思います。
伝統産業と観光の行方
辻:もう一つ話題として挙げておきたいのが、外部とどう接続していくのかということです。有松での事例のように、専門分化された産業体系が限界を来している中で、伝統産業が統合的な分野を扱う枠組にシフトしつつあると考えれば、外部との関わりの中で教育的な付加価値も新しく出てくると思います。専門的なブラックボックスではなく、誰もが学ぶことができるプラットフォームとして伝統産業を捉えるということです。そのような文脈において、例えば観光についてはどう思っているのでしょうか。単純に大勢の人が来れば良いのか?お三方とも行政主導のプロジェクトが多い中、どういうバランスを取っていくのか話をお聞きしたいです。
水野:結局、東京や京都のように生きている都市が一番の観光地だと思っています。一方で地方都市は内需が外に出ている状況です。例えば常滑の観光名所である「やきもの散歩道」も、少しずつ変わってはいますが、まだまだ産業遺産を見て帰っていくような、リピーターの少ない場所になっています。常滑に住む生活者はめったに行かないです。そうではなくて常滑で働く人、遊びに来る人、暮らす人、活動する人のための場所にしていく、そういう複合的な場所になることが大切なのではないかと考えています。
浅野:私は、オープンネスすなわち「開く」ということをどう捉えるのかだと思っています。有松絞りは、染色であり繊維であり軽い素材であったことから、そもそも外部から入って来たものでした。そこで発展、流通、あるいは技術革新をもたらした人がいて定着したという歴史的な流れがありました。今、有松で閉塞感を感じているとしたら、それは流動性を失い、「高い」「藍色」「くくる」「古いまち並み」という固定化されたイメージから生まれてしまったからだと思います。かつて有松絞りが隆盛した大正時代にたくさんの技術や商品が生まれていたように、オープンネスによって生まれる外部刺激は、継続性や多様性を孕むきっかけとなるのではないでしょうか。
石野:信楽では観光の捉え方自体が変わってきています。一昔前では、流通がそこまで発展していない状況下で、実際に産地に足を運んでモノを買うことそのものが観光だったように思います。現代では都市部の店舗も増え、ネットで検索して購入する方が早い。「産地に来て買う」という観光の意味合いは、産地全体としては失われていくように感じます。そこでの暮らし、例えば職人さんの普段の生活を擬似的に見ること体験することで他にはない地域文化や生活を感じることができる、体験そのものが価値になっています。私たちは信楽という個性的なエリアでのライフスタイルをきちんと整えて、暮らすこと、働いていることが大事だと思います。
水野:来年度、「やきもの散歩道」内で、常滑焼の器を使ったワークショップを行う場所の設計を手がけていますが、そこでは、日常生活の中での器の使い方を地域や外部の人々が体験して学ぶ場所にもなります。現代の生活の中で焼き物を使うことを学び、もう一度日常に取り込むことも大事だと思います。
建築家像へのオルタナティブ
柳沢:お三方とも伝統産業に立脚しながら、語り方が違うので、まとめて論じることがとても難しいと感じています。この『建築討論』で論じることの意義としては、近代的な建築家像に対するオルタナティブとしてのフレームが一番わかりやすいと思います。ポイントとして、建築家は地域産業とどう向き合うのか?シンプルな問いにするならば、建築家にとっての産業は近代ではクライアントだった。現代において地域産業の中で建築あるいは建築の専門家はどういう役割を果たし得るのでしょうか?
石野:私の場合は、産業の中に生活がある一方、建築的な視点というのもあるので、産業と建築は溶け合っている存在のように感じています。そうした立ち位置の中にいることもあり、私としてはやはり産地という場所性をどう捉え直していけるのかを考えています。1300年続くものづくりのまちとしてのポテンシャルはすごくあるので、ここで産業に関わり暮らしている以上、何かしら自分としてのまちの視座を持つことが仕事の上でも生活する上でも大切に感じます。
水野:私の場合は、産業の製品のユーザーであり、批評家であり、供給側であり、文化の担い手でもあるというイメージでしょうか。建築家の職能には元々そういう部分があると思いますが、普通の建築家と違うのは供給側と直結しているということだと思います。他の建築家やユーザーに、より積極的にタイルなどの建築陶器を使ってもらえるように、自分自身でも使ってみてその結果をフィードバックして学んだことを活かし、つくり、伝え、広めていきたいと考えています。例えば、水野製陶園で制作したタイルをとにかく特徴的に使う建築家として、作品を発表していくというスタイルももちろんあると思いますが、なるべく自然なかたちで陶器が生活の中で使われることを目指したいです。さらに、成熟した使われ方というか、時間的にも空間的にも射程を遠く持ちたいと思っています。陶器というものは人類の歴史においても古くから付き合ってきたものですし。けど、おもしろい使い方も大事ですよね、現代的な使い方というか、やっぱり振れ幅が大事なのかもしれませんね。
辻:例えば3個しかない在庫の1個の扱いは慎重にならざるを得ませんが、1000個持っている時の1個の扱いに関してはもう少し積極的にリスクを背負った判断ができる。水野製陶園が広大な敷地や巨大な工場を持つように、スケールメリットが産業を持つことの強みですよね。
浅野:私にとって有松や絞り染めは、生きる術や生きる糧を教えてくれる存在です。服が汚れたら捨てようではなく、染め直して長く使おうと思える産業や歴史との関係や環境があります。技術と動機のどちらかだけではなく、両者が揃ったメタデザインの視点。その視点から、プロダクト、イベント、ワークショップを通じていろんなプロジェクトを同時に立ち上げていくことも隠喩としての建築家的職能だと感じています。
近代の変化をどう捉えて学ぶのか
水谷:それぞれの今に至るまでの近代への乗り越え方を教えてほしい。例えば三河の場合、もともと木綿が主産業だったのですが、近代化による衰退の中で工業都市へと移行しました。そこで質問ですが、産業が近代化していく時にそれぞれに大きな変革があったと思います。そこをどう捉えられているのかお聞きしたいです。
水野:祖父が創業した時代では、例えばレンガは舗装材の主材料として使われていました。その後、舗装材の主材料はより安価なコンクリート製のインターロッキングに変わっていきました。そうするとレンガはすこし高級な舗装材料として使われるようになった。今では、コンクリートを合板や集成材に例えるなら、レンガは無垢の木のような存在だとも思っていて、人により近い場所に使うための付加価値の高い材料にシフトしてきたともいえると思います。そういう新たな需要なんかを、じぶんでも使い考えながら、ユーザーや他の建築家の方にも考えて使ってもらいながら、乗り越えようとしているのかもしれません。
石野:信楽焼がなぜ残り続けているのかといったら、土のもつ素材のポテンシャル、可塑性がすごいことと、外部の人を受け入れて交流してきたまちの人の度量だと思います。時代時代に合わせて火鉢、たぬき、植木鉢と主力となる製品を変えてきたり、あるいは、かつてはもっと現場レベルでの外部との交流が盛んで、様々なものを吸収しながら発展してきた歴史があります。有名な狸なども、ルーツを辿れば京都から来た職人さんによって生み出されていたということもあります。今は産地で完結してしまい、交流もほとんど途絶えているような状態です。再び外部や他分野との交流ということに意識的でありたいと思っています。
浅野:捺染に比べると絞り染めは、複雑な技術を要し、くくられた三次元構造の布を扱ったことで近代化のなかで遅れを取ってしまった。しかし、それが故に現在も有松に残っているという考えもあります。かつて分業を影で支えるマネージャーとして「影師」と呼ばれる人がいたそうです。どのタイミングで誰に頼むか、どのようなものをつくるか考える現代の建築家やプロデューサーです。かつての影師がしていたように、仕事や生活をこの地で行う価値を見出す動機付けが重要だと思っています。
建築的な価値への転換
川井:感想になりますが、みなさん時間の捉え方が近代以前にまできちんと及んでいる。そこには伝承された技術やエリアとしての個性をものの持つ高い解像度に埋め込まれていると感じました。それは建築的な価値への強いメッセージでもあります。そして伝統産業が生活の一部として溶け合いながら活動するスタイルは、既存の建築家像とは異なるユニークな存在といえるのではないでしょうか。
辻:私達は、明らかに成熟社会の恩恵を受けていると思います。それは様々なものが余り、「遊び」を持ち始めるということです。高度経済成長期の遊びだけではなく、近世からの「遊び」を積み重ねてきた伝統産業は、その扱いを象徴していると再確認しました。伝統産業は一つの都市よりも長く続いているケースもわけですから。加えて、三者とも建築教育を受けた後にそれぞれのフィールドで建築以外のアウトプットについても携わっている事実を引き受けるとすると、建築的であることや建築教育のもたらすアウトプットの意義として大きく共通するものを感じました。1つ目は持続的であること、2つ目は包括的であること、3つ目は構築的であること、その3つが共通していました。伝統産業という都市固有の文脈へのアプローチが基準となり、建築教育の位置付けを考える上で、大きな収穫のある座談会となったと思います。本日はお忙しい中ありがとうございました。
現在の中国福建省建陽市にあった建窯で作られたとされる。現存するものは世界でわずか3点のみであり、そのすべてが日本にある。3点が国宝、1点が重要文化財(MIHO MUSEUM所蔵)に指定されている。いずれも南宋時代の作とされており、作者は不詳である。
明治大学理工学部専任准教授。1970年兵庫県生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。博士(人間・環境学)。総合地球環境学研究所(地球研)を経て、現職。著書に『「生活工芸」の時代』(共著、新潮社)、『道具の足跡』(共著、アノニマ・スタジオ)、『〈民藝〉のレッスン つたなさの技法』(編著、フィルムアート社)。
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