立ち上げにあたり

「建築討論web」立ち上げにあたり

布野修司/滋賀県立大学・建築討論委員会委員長
紙媒体の建築系雑誌が次々と廃刊・休刊し、建築作品の評論の場がなくなる、あるいは別の流れへと移りつつある。一方で日本建築学会は、建築作品の質に関する議論のみならず学術・芸術・技術の各分野を横断する議論を経て、作品選奨・作品選集を選考してきた実績がある。そこで作品選奨・作品選集のようなアニュアル・アワードを対象とする評論と記録のみならず、日常的に評論、討論を行うメディアとして「建築討論web」をスタートさせることとした。まずは「建築討論web」への期待と、何を討論していくかという方向性について2013年7月5日開催の委員会における議論をベースに、各委員の見解を示す。

建築メディア「建築討論web」の可能性


日本建築学会という場を生かした、濃密な議論を

宇野求/東京理科大学・建築討論委員会幹事
作品選奨・作品選集の選考委員会の委員長を2年間やって感じたのは、選考のプロセスの重要性だ。年間300件前後の応募作品から作品選集掲載の100件に絞り、さらに選奨の12件にする。その間に建築家や各専門分野の研究者など、おそらく100人を超える人間が現地審査に赴きながら討論を重ねることになる。一方で既存の紙媒体の場合は相当数の作品評価を数人の編集者でまかなう体制で、それが限界になりつつあるのではないか。「建築討論web」では、建築学会のネットワークを生かしながら既存媒体とは異なる討論や取材ができるのではないか。建築がビジュアルとして世界に流出する時代だからこそ、カタログ的なメディアとは役割が異なることを認識し、流出しえないものに建築の真髄があると捉え、現代における建築の議論を深めたい。


地域や社会との関係から建築を論じる

伊藤香織/東京理科大学
いま大学では意匠系の研究室の人気が軒並み落ちつつあり、学生たちの興味もスター建築家から、地域や社会との接点へと、関心が移りつつあるように見える。これまでの建築メディアは作品中心の伝え方が主流だが、「建築討論web」では建築単体にとどまらず、地域や社会との関係から論じることができないかと考えている。


「建築討論web」独自の評価軸も必要

木下庸子/設計組織ADH
コンピュータ時代になり、いつでもインターネットから情報が得られるようになったいま、かつては建築の情報提供や批評の場であった建築系雑誌の存在が変わりつつある。特にコンピュータ世代にとってみれば当然ながら「いま、この情報を得なくてはならない」という切羽詰まった感覚はない。このような背景のなか「建築討論web」が建築批評の場を提供する意義をどう訴えられるかが課題ではないか。 また、かつては紙媒体の雑誌が担っていた批評の場提供の役割を「建築討論web」がそれに代わるものとして建築界から認知されることも重要。「建築討論web」独自の評価軸も必要かもしれない。作品選集とリンクするなど、建築学会がこのような企画を主催する意義と、一方で「ここでとりあげられたい」というインセンティブがうまく呼応してこそ、このような試みが意味を持つと思う。


インターネットだからこそできることを

平塚桂/ぽむ企画
インターネット上で展開することで、日本建築学会に元々存在する、広範な専門分野からの議論に横串を刺すことができる。また読者からの反応や意見をすいあげる仕組みの工夫次第では、幅広い地域から草の根的に作品を発掘することもできるのではないかと考えている。


社会に向けた言葉を鍛える

藤村龍至/藤村龍至建築設計事務所
本来建築は政治や経済と密接に結びついており、社会の課題を解決するために手を取り合って来た。ところが、現代の日本ではこれらの関係が論じられなくなって久しい。この50年間、建築を社会に向けて論じて来なかったつけが、建築家や建築学の疎外というかたちで現れているのかも知れない。時間はかかると思うが、社会に向けた言葉を鍛える場として、web討論の場を活かしていきたい。


幅広い議論を通して、建築文化の底上げを期待する

山梨知彦/日建設計
建築討論webが、建築に関わる幅広い議論の場になることを期待している。 この国の建築にまつわる議論は、常に専門家の間に閉じて来たように思う。昨今の建築専門誌が発行部数を減らしたり休刊になったりといった状況の中で、そもそも閉じ気味であった議論が、ますますセグメント化している。Twitterなどで発信される情報も、ささやかれる数自体は多いものの、内容はむしろ同人雑誌化しているようにも感じる。情報革命の時代にもかかわらず、悲しきかな、建築界を横断する議論の場は現れず、むしろその場が淘汰されつつあるようにすら感じる。 こういった事態となった原因の一つは、この国の中で広く建築について語られることが少なく、建築文化に対するリテラシーが広く一般に共有されていないことに由来するのではなかろうか。建築家、学者、エンジニアなどがそれぞれの専門領域において高度な議論を行うことも当然必要であり、学会の王道であろう。しかしより優秀な専門家を建築の領域に集め建築文化をより深めていくためには、社会全般の建築への関心を引き起こしリテラシーを高める必要がある。これまた学会の重要な役割ではなかろうか。 Webの特性であるアクセサビリティの高さを生かして、領域を超え、さらにクライアントやユーザーをも交えて、平易な言葉ながら質を落とすことのない討論を可能にして、専門化のみならず社会全般の建築文化に関わるリテラシーを向上させる場が生まれることを期待している。


論が作品へとフィードバックする流れを取り戻す

布野修司
かつては評論家が指摘し、論じたことが、どのような建築をどういう方法でつくるのか、つくり手に跳ね返る流れがあった。自分の学生時代などは議論を通じて上のジェネレーションの方法を継承しながら、批判的に乗り越えていくかということが最大の関心事だった。上の世代がやってきたことを、下の世代が総括して新しいものをつくるということをしていかないと、いいまちはできていかないという意識がある。しかし、現代は、巨大な何かの要求そのものの垂れ流し状態なのではないか。

討論したい建築作品・話題

地域社会に迎えられる建築

山本理顕/山本理顕設計工場
ザハ・ハディドの設計に決まった新国立競技場のコンペは、そのコンペのプロセスを含めて、今の建築が抱えている問題をそのまま映し出している。このコンペは国家的なアイコンをつくることが当初から目的化されていた。コンペに参加できるのは、国際的に認知されたスター・アーキテクトのみ。さらに、実施設計は日本の大手組織設計事務所が想定されている。建築家は形だけ決めればいいというようなコンペである。その巨大なボリュームがこの場所に新たにつくられるということに対する責任感もない。誰一人責任を取らない。建築家なんて、建築の設計なんて、せいぜいこんなものさ、多くの人たちにそのようなメッセージを送っている。 建築とその場所との関係がますます希薄になっているように思う。その場所との関係を問わない。建築家の頭の中でつくられたパターンがそのまま形になるというような建築のつくられ方は、確かに、その純粋さを徹底した建築になる。周辺環境との関係、生活の様々な場面との関係が抽象化されるからである。でも、そうした方法に限界があるということは20世紀を通じて私たちが学んで来たことのような気がする。その建築が建てられる地域社会とどう関わるか、その地域社会から歓迎される建築をどうつくるのか、それを考えたい。


建築家が作品に責任を持つ

和田章/東京工業大学名誉教授
「建築家はひもじい」と感じることがある。たとえば設計の対象となる敷地自体が軟弱地盤で建築を建てるべきでないとき、津波のおそれがあるとわかっていても、敷地を変えたり高台移転などの提案はせず、街の将来には目をつむり、穏便に設計料をもらう方向で仕事を進めるようなことが見える。メディアで華々しく評価を受けながら、何かトラブルが起きたら「自分は下請け」だと言いわけをして逃げ惑うこともある。よい建築がつくれないことを、法律や経済のせいにする姿勢も感じられる。建築家は設計しようという建築、さらには町並み、できれば都市に対し、状況に応じて都合よい立場でふるまうのではなく、自ら責任を取るべきだと訴えたい。


建築業界の仕組みを突破する議論を

布野修司
「建築討論web」では、行政や法、経済など、建築業界の仕組みを突破するための議論をしたい。たとえば滋賀県守山市の市長が東大の建築学科出身で、中学校の二段階公開コンペ、オープンヒヤリング方式というのを手伝った。その後、今、保育園を同じ方式でやろうとしている。さらに、どこにもない図書館をつくりたいと言うことで、そのプログラムづくりに関わっている。全ての公共建築を市民と対話しながら、というので大いに期待している。全ての学区、自治会参加のかたちで、市の将来構想(守山まるごと活性化プラン)を立案するのもユニークである。このような事例を積み重ね、ここで紹介し議論することで突破していけないかと考えている。

委員のコメントから、大きくわけて2つのポイントが見えてきた。1つは建築メディアと「建築討論web」の位置づけについて。2つ目は、討論の対象について。これは建築業界の仕組みに関する議論が軸となりそうだ。今後の展開についてのイメージも、おぼろげながらあらわれてきた。建築やまちづくりに関わる個々の活動、作品を評価する中で、日本の建築を支える仕組みをより豊かにしていければいいと思う。(布野修司)