今年1月から単身インドネシアに渡り、現地の有名国立大学留学、ローカル設計事務所インターンシップ、慣習村でのフィールドワークを通して見えてきたインドネシアをここで一度振り返りながら、現地の大学教育から建築事務所、慣習村の現状をご紹介したい。
-何故インドネシアか-
修士課程までの24年間全てを東京で過ごす中で、一次的欲求が置き去りにされた都市での生活と毎日経験する不快のない空間に生き生きとした実感がなくなっていた。
そこで、現在でも数値化できない時間、ヒトが溢れ、その生活を維持するための知恵とそれを内包する生命力ある空間を求めてインドネシアへの留学を決めたのだ。
具体的には土着信仰の残る慣習村や、竹などの自然材料による伝統住居と現代建築を現地でリサーチ中である。
-大学教育-
私は東京工業大学からの派遣交換留学生として、首都ジャカルタから車で2~7時間の都市に位置するバンドン工科大学の修士課程に留学。インドネシアの東工大といったところであり、国内の最も優秀な大学の一つで知名度が高い。
学生は設計のレファレンス集め、現在の国内外の建築業界の流れを把握するために何を使っているかというと、基本的にInstagram等のSNSとArchDairyといったネット上のメディアである。彼らは国内外の建築家の情報を等価に得ており、20~30代の若手建築家にはSNSや動画配信などをうまく利用してクライアントをゲットしていく、名をあげていくといったロールモデルも生まれつつある。こちらに来て驚いたのは良質な書籍とそれを入手する場の少なさ、国内建築メディアがほとんど機能していないことである。
学生の設計プロセスと先生方のコメントで感じるのは、構造デティールや細かな技術面に関しては世界中の前例をあたって日本の大学以上にきちんと設計するが、周辺敷地や敷地内のエリア同士の繋がりに関してはそこまで注力しないこと。街への立面とアクセスはパーキングで隠され、コートヤードを中心に敷地内部をいかにドラマティックにするかという街路沿の店や住居を見ればこれも理解できる。
大学教育の場でも卒業後の職場でも敷地模型やスタディ模型を制作することは滅多になく、最初からスケッチアップ等の3Dソフトでスタディから基本設計まで全てを行う。模型を制作する場合は現場で図面の読めない大工に説明するため、もしくはクライアントへ最後のプレゼンをする際に使用する。
やはり新興国と呼ばれる国だけあって、日本と違い沢山のプロジェクトが目の前にあり、かっこいい建物をどのようにできるだけ早く多く建てていくかということが重要になってくるようだ。
そして一部の地域を除いてインドネシアに共通して言えるのは、批評し合う、議論し合うという機会が少ないことである。一般的に、批評することは相手のメンツをつぶすことと捉えられるので、人間関係を壊さないように第三者の前でも批判や批評を口にすることは少ない。教育水準が依然そこまで高くはないこと、研究・論文のレベルの低さを招いている大きな原因の一つがこれかと思う。
-学生-
学生は皆優秀であり、デザインスタジオと授業のみでなく、陰で修士制作もしくは個人の設計の仕事を進めている。
院にストレートに上がり、すぐに修士制作に着手している学生はだいたい1~1.5年で大学院を卒業する。バンドン工科大学は国内でも特殊で、学部も院も必要単位さえ取得できれば就学期間を短縮することができる。よってクラスメイトには学部を3年で卒業し、そのまま院に上がって院を1年で卒業するという学生もいた。
一方、そのまま大学院へ進学してしまうと年齢が上がり、就職先が少なくなるという考えが一般的なので、院生の過半数は一度社会経験を経てから戻ってきた人だ。
この場合は、修士制作ではなく皆学外で仕事をしており、フリーランスで基本設計を担当していたり、友人と会社をつくって共同でいくつかのプロジェクトをまわしていたり、事務所で仕事をしつつ大学に通っている。日本の若手建築家は小さな案件ばかりを手がける時代だが、ここではお小遣い稼ぎに新築集合住宅の設計をしている友人もいる。
大学にどんどんと学生がストックされている日本とは異なり、とにかくどんな若者も将来に不安を抱いていない。もちろんこのような優秀大学に通う学生は一握りで、彼らの将来が保証されている可能性は他の人々より高いのだが、中卒の農村の若者にも同じことが言える。
現在インドネシアは経済成長が止まらないとは言え、日本のような生活保護等々の社会制度は未だ整っていない。しかしこの豊かすぎる風土と氏族内での相互扶助が染みついた文化の下では、多くの人間が純粋で安楽的で許容力がある。
私たちの世代の「生き方の模索」においては、十分に参考になることが多い国だと思うのだ。
-バリ島設計事務所-
バンドンでもなかなか面白い消費スタイルの都市生活を送ってきたのだが、早々に切り上げてバリ島の事務所でインターンシップをする。白黒言い表すことのできないものを排除せずに喜んで扱おうとするアニミズム的生活と、もともと興味のあった竹という有限性と具体性の高い自然素材を学ぶにはバリ島の方が適していたからだ。
バックパックにポートフォリオを詰めて、友人知人から集めた情報を元にインドネシア人ボスの事務所を巡った。
バリの設計事務所は基本的にリゾートや飲食店のプロジェクトがメインである。私は計4人のインドネシア人建築家にお会いできたが、それぞれ個性豊かな設計スタイルであった。
一人目はバリ島で一番の大御所とも言えるPopo Danes氏。バリ島内やインドネシアの島々で多くのリゾートを手がけており、バリ人としてホスピタリティを常にデザインの要としている。彼が全てを把握できる限度の20人弱のスタッフを抱え、スタジオにはイベントスペースを併設しており、毎月様々な建築イベントが催されている。
もう一人のバリ人建築家はKetut Arthana氏。彼はトロピカル建築の系譜を意識しながら、時にスピリチュアルなコンセプトをランドスケープや建築のデザインに落とし込もうとする。バリでは仏教やヒンドゥー教、精霊信仰、山岳信仰などあらゆるものが入り混じっているので、風水や地霊を重視した設計と建設は昔から一般的である。
去年初めて事務所を訪ねた時は、真鍮のダウジング棒を手渡されて、彼の代表作でもあるFivelementsリゾートを見学させてもらった。風の流れや空気の溜まりを身体で感じながら、エネルギーの配置がその器具によって可視化されたのは、興味深い体験であった。
バリ人ではないがインドネシア人の若手建築家Effan氏は、Green Schoolなどの大型竹建築を手がけるIBUKU事務所から独立したばかりだ。
彼は独立後、IBUKU在籍時よりもきつい曲線による複雑な小屋組みやRCとの混構造にも挑戦している。IBUKUやeffan studioに共通して言えるのは、敷地のコンテクストに触れることは少なく、植物や海洋生物などをモチーフとした建築の形態を重視することと、それを竹ひごの模型で頻繁にスタディすることである。
そして、私がインターン先に決定したのはバリ人Gede Kresna氏のRumah Intaran事務所である。この事務所はデンパサールの空港から約4時間、山を越えて北海岸に降り、少し東へ行った村にある。
決め手は何と言っても、この不便さと日本やインドネシアの都市では遭遇することのない働き方を実践していたからだ。
バリ島は、クタやデンパサールなどのある観光地南部と山脈を越えた北部では別世界が広がる。北部は観光地化がそこまで進んでおらず、植民地時代に栄えた市場や寺が現在も残っており、標高1000m~3000mの山々と枯れた大地が広がる。そこには私が興味のあった先住民の村々も点在する。
スタジオの周囲には飲食店もアパートも何もないので、ボス家族をはじめとしてスタッフやインターンシップ生は皆で共同生活を送る。職住の全てを、ガスコンロも温水シャワーもないスタジオ敷地内で行う。また、プラスチック、洗剤石鹸、人工着色料・甘味料禁止、揚げ物はココナッツオイルのみなどの数々の規定がある。
朝6時前には起床し、庭を掃く、家畜や植木の世話をする、火起こしと朝食の準備をするなど、各自定められた仕事を行う。その後ヨガをしたり水浴びをして、全員で温野菜などの質素な朝食をとる。そして夕方5時まで各々敷地内の心地よい場所を選んで仕事をする。
設計プロジェクトは常時一件程度しか請け負っておらず、基本的には農村での生活や職人の技術をリサーチしてブックレットにまとめるという活動をしている。最近はそんなボスの活動が高じて、新リゾート周辺村々の可能性を探るコンサルタントに抜擢された。
設計のプロジェクトは毎回鉄木の古材やヤシの葉などの自然素材を使用し、出来るだけ木組みで仕上げられる。
何を使って、何を食べて生活するかなど、農村の伝統的な生活を参考として、彼らはスタジオでの生活のあり方を日々模索している。
-慣習村-
バリ島北部でのインターンシップ期間中、事務所から1時間程度の先住民の村で、私は毎月のように参与観察を行なっていた。バリ島には5世紀にマジャパヒト王国がジャワ島から移ってきた前から存在していたとされるバリ・アガ、もしくはバリ・ムラという人々が、山中や北海岸~東海岸付近に住んでいる。バリ島という国際観光地にあり、電気もインターネットも開通しているが、彼らは村独自の慣習や住居形式を持っており、地産地消で物事がまわっている。
彼らと共に生活すると分かることは、毎日のお祈りや儀式の準備が村の生活を形作っているものであり、家族やコミュニティを強固に維持し続けてきたものであるということだ。毎日がお祭りとその準備なのだ。そのために家族や近所の者と集まって談笑をし、手先を動かし目的のある供物を制作することは、確実に幸福感を伴う活動である。100人の男が集まって朝3時から10匹の豚の供犠をし、女性が米倉の下で井戸端会議をしながら一枚の葉で数十種類の芸術的供物を制作する。
バリ・アガの村に限らず、インドネシアにはゴトン・ロヨンという相互扶助の習慣がある。儀式の際はもちろん、個人の家を建てる時、寺やコミュニティの場所を修繕するときなど、無償もしくは食事提供のみで助け合うという仕組みだ。現代のワークショップという曖昧なイベントとは異なるが、今もあらゆる場面と規模で機能している。
そして、現在も数件残っている彼らの慣習住居は質素なマテリアルで構成されながら、豊かな意味を持つ空間と技術が詰まっている。
快適性や合理性を追求した住居には無い人の活動や知恵、経年変化を直接感じることができる。普段見えない空気の流れがかまどの煙によって可視化され、陽の光が竹壁の網目によって揺らめくパターンを纏い、供物や生活用品の配置が見えない力の存在を伝える。
プダワ村での生活やインターン先でのプロジェクトを通して、自然素材に関する知識を実践的に得ることができた。
建築材料は得体の知れない製品ではなく、ヤシや竹のように食品にも生活用品にも供物にもなり得る植物であり、使う分だけ育てることができる。農村でも快適性を求めてRC造の住居が増えているが、現在も伝統工法や自然素材を好む者は多い。毎日自然を何かしらの形で余すことなく利用し枯渇しないように維持する知恵は、慣習や観光と絡めることで可能となり、世界で注目されるサスティナビリティの実例である。
インドネシアではヴァナキュラー建築に惹かれ既に5つの島を巡ったが、どこの慣習村も観光地化の波が押し寄せている。基本的には行政かその村出身の成功者から資金が出て、既に観光地化された他の村を参考に、村人が見よう見まねで観光地化を進める。伝統住居を再建し、お土産を置いて見学料を徴収する。村人の多くは高等教育を受けておらず、投資する側も資金のみで方法を提供しないことが多いので、他の観光村の安易なコピーに陥りがちだ。
私が住み込んでいたバリ島のプダワ村でも、定期的な参与観察を始めてからの5ヶ月でその動きが強くなっていた。私は観察者として、魅力的な空間や慣習が失われる可能性のある観光地化には加担しないようにつとめた。チープなフォトスポットではなく、見学者や主催側が新しい発見ができるようなものにならないものかと考えるのみで、行動に移せない自分をもどかしく思っていた。
そんな中、伝統住居を保存している私のホストファミリーのお父さんとともに、村の伝統形式の物見小屋を建てた。以前は村中で見られたそうだが、現在は流行りのデザインで建てられた小屋がいくつかあるのみだ。
伝統に執着するつもりはないが、村のお父さんたちが建て方を覚えているうちに誰もが見える形にすることで、若い世代やその親世代に自身の村について興味を持ってもらいたかったのだ。これもゴトン・ロヨンで村の人に手伝ってもらい、建設が終わる前から毎日誰かが遊びに来る場所になっている。
その他にも、プダワ村に関するリサーチを誰でも楽しめるレイアウトで冊子にまとめ、村のお世話になった方々に配っている。子供達の反応が良いので、伝統住居や生活用品などを題材にしたイベントを村の小中学校で開催する予定だ。
現在私のインドネシア放浪は11ヶ月目に突入したが、残りの期間は活力あるインドネシアのヴァナキュラー建築や現代建築をさらに精力的に巡るつもりだ。
優れたバランス感覚の生活、自然環境や他者に対する諦めと並存の付き合い方、見えないものと共に暮らす住居、どれも東京で学ぶことは難しい。
今後の研究対象と、自分自身の働き方、生活の仕方をここインドネシアの地で探ろうと思う。
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