建築作品小委員会選定作品 / 縁と新たな共同体
「縁」と新たな共同体
A new community based on "en"

場所:日本建築学会会館2階201号室
日時:2016年3月4日(金)18時~20時
司会:能作文徳
メンバー:仲俊治(仲建築設計スタジオ)、常山未央(mnm)、伊藤暁(伊藤暁建築設計事務所)、辻琢磨(403architecture [dajiba])
オブザーバー:布野修司、吉本憲生、
記録:川井操、撮影:和田隆介

『ヴェネチア・ビエンナーレ』

能作:第15回ヴェネチア・ビエンナーレ建築展・日本館展示では、「縁」というテーマで、12組の若い建築家が招待されることになりました(http://2016.veneziabiennale-japanpavilion.jp/index.html)。それぞれ「人の縁」、「モノの縁」、「地域の縁」というサブテーマがありますが、それぞれがきっちりと分けられるものではありません。それぞれの「縁」は互いに関係しあっています。また「縁」といっても、それぞれのプロジェクトでいろいろな特徴があります。それはクライアントとの関係だったり、家族、地域の人だったり、古い民家、街並だったり、それらを関係付けていく空間のつくり方も様々です。そこで、そうした「縁」を知るために、本日はそれぞれに異なる条件下やアプローチでプロジェクトをおこなってきた4人の建築家にお話を伺います。

会場写真

会場写真

仲俊治《食堂付きアパート》

能作:まずは、仲俊治さんに《食堂付きアパート》(http://touron.aij.or.jp/?p=1616)についてお話を伺いたいと思います。先日、《食堂付きアパート》を訪問したときにいくつか聞いてみたいことがありました。螺旋状に展開するコモンスペースが特徴的ですが、それを企画し、運用していくにあたりクライアントの方がどのように考えていたのかが気になりました。クライアントからはどのような要望があったのでしょうか?

仲:クライアントは商店街の元会長さんとその息子さんでした。「アパートという事業性を前提にしながら、地域のためになんか考えて欲しい」と大まかな要望がありました。敷地界隈は商店街で有名なところであり、また、若いデザイナーたちがいるところで、ある意味切磋琢磨している。仲よく交流することを目的にするのではなくて、居住と密着した生業に着目することが、この街ならではやり方じゃないか、と考えました。のちに「小さな経済」と表現するようになるのですが、生業に着目することで開かれた生活環境をつくろうと思ったわけです。
そこから、働く場所と住む場所が一緒になったような住戸、すなわちSOHOユニットをイメージしました。私自身がY-GSAで山本理顕さんらと地域社会圏の研究に関わっていたこともあって、シェアハウスでないものの可能性を探りたいという思いもありました。もちろんシェアハウスも検討したり、クライアントと一緒にあちこち見学したりしましたが、閉鎖的な住宅を、個室レベルで縮小再生産しているように思え、僕もクライアントも今回は違うな、と。
さらに、建物と敷地が全体として一つの生活環境であることを目指しました。下町の生活そのもののようなもの。3階建てではあるけども、うまく地上からの繋がりを生み出しながら。「立体路地」と呼ぶ空間がその媒体です。そこで「立体路地」をつくる材料—床材や外壁材—はこの下町で使われる一般的な材料のアセンブルとしました。
また、クライアントが商店街関係者とあって、頼れる地域資源を選択できる感覚がありました。例えば、近くに銭湯があるから部屋にはシャワーのみでいいよね、とか、洗濯機は住戸の中にも置けるけどSOHOユースなら住戸内に洗濯機を置くのではなくて、共用のランドリーを用意して使ってもらっていいよね、など。外をうまく使いながら生活していくことが、ここであればできると思いました。食堂には外部からお客さんが来るし、SOHOには関係者が訪れるだろう。《食堂付きアパート》と地域の間に、いろんなギブアンドテイクが行われるだろうと。そんな関係がまちのためなるということを期待しました。
つまり、「地域のためになるようなアパートを」という要望に対して、食堂付きアパートは、人とモノと地域という3つの相で関係性を結ぶことを考えてつくったと言えます。ビエンナーレでは「人の縁」というカテゴリに入っていますが、当事者の僕の感覚としてはこんな感じです。

仲俊治氏

仲俊治氏

能作:「立体路地」が建物全体を巻き込むことで、隣地の建物の裏側までみえてしまいます。大きな「立体路地」は、コーヒーを飲んだり朝ごはんを食べたり積極性を生み出す一方で生活が露出してしまうような不安要素もあると思いましたが、どのように考えて設計されたのでしょうか。

仲:単純に「大きい軒」が良いなと思っていました。「大きい軒」を介して、なんかこう庇護のもとに、上下階のやりとりが生まれたり、おむかいさんやお隣さんの関係がつくれたりするといいのかなと。看板やテーブルも置かれていたりして。立体路地から奥に行くにしたがって徐々にプライバシーが高まるような構成にしておけば、大丈夫じゃないかなとおもった。
寸法についてもいろいろと考えました。「立体路地」は、実は各住戸のベランダ部分を廊下側に持ってきて重ねて拡げただけです。だから、賃貸物件としての面積効率は実は変わっていません。

会場写真

「立体路地」について解説する仲氏

常山未央《不動前ハウス》

能作:続いて常山未央さんの《不動前ハウス》(http://touron.aij.or.jp/?p=1641)についてお伺いします。《不動前ハウス》はオーナー夫婦と5人の住人によるシェアハウスですが、まず、どういったクライアントなのか、なぜ中古物件を選んだのか、どうやって運営しているのか、教えていただけますか?

常山:クライアントは私の大学時代の同級生とそのパートナーの30代前半のカップルです。ワンルームマンションのような寝床と水まわりしかないような家に家賃を払い続けるなど、単身者の住宅事情に疑問を持っていました。満員電車に乗らなくて済む都心に住みながら、生活や仕事をする余地のある家に住めないか。という思いから、人となんらかのかたちでシェアをすればどうにか自分たちにも手が届くであろう、中古の一戸建て、それも不動産価値を持たない再建築不可物件に狙いを定めて探していました。シェアの仕方はシェアハウスやシェアオフィス、あるいは下のリビングをカフェとして貸すなど、いろいろ想定しつつ、可能性を開いたまま、ざっくりとした枠組みで物件を探していました。
最終的にたどり着いたのが、不動前にある水路が暗渠になった細い路地に面する1階が倉庫の住宅です。初めて訪れたときはツタだらけで薄暗く、しめっぽい、お化け屋敷のような、印象でした。それまで何件か一緒に見学に行かせてもらったのですが、この不動前の物件は再建築付加物件には珍しく、延床面積145平米という広さと、1階が鉄骨造であることで建物の状態が比較的よさが魅力でした。設計が始まった時点ではまだ、シェアの枠組みや運営の仕方も固まっておらず、既存のものの可能性を最大限に引き出すよう骨格をつくり、生活を営んで行く中で変わっていく運営の仕方や、枠組みに対応できるように考えていきました。出来上がってから2年半経った今も、その時のニーズや住人の意向に従って流動的に運営方針を変えています。

常山未央氏

常山未央氏

能作:実際にリノベーションする際に、具体的に何を変えたのですか?

常山:元々二世帯住宅だったのをひとつの家として使えるようにしました。大規模な改修ができないため、屋外階段はそのまま活用しています。1階は住宅に改築されていた内装をはがし、倉庫だったもとの姿を活かした大きなリビングにしました。正面の既存バルコニーにテントを仮設的に掛け、まちとの緩衝領域を設けました。リビングと個室群をつなぐ屋外階段が前庭に放りだされているのを和らげる役割も担ってくれています。2階は個室5部屋を入れるために、間仕切りを再配置し、5部屋の外側に廊下を設けました。中廊下だと暗い場所になり、ドアが向き合い、閉めっぱなしになり、暗い廊下に背を向けて住むことになってします。家の中にそういう場所を作ってしまうのは、建物の魅力を落とし、最終的に寿命を縮めてしまうのではと考えました。むしろふんだんに明るい、皆が常に廊下に開いていたくなるような、縁側のような回廊を設けました。

能作:2階のシェアハウス部分について、個室のガラス戸の前を人が通るということは、普通の感覚からすると難しいとおもった。廊下と個室の関係はどういった使われ方をしているのですか?

2階廊下と個室

2階廊下と個室

常山:個室と廊下を隔てるのはガラス戸とカーテンの2つです。音を遮断したいときはガラス戸を閉める。光を遮断したいときはカーテンを閉める。この2つをうまく使って個室と廊下の関係を調整できるようにしています。住人によって使い方は異なりますが、ずっと閉めっぱなしの人もいますし、これ見よがしにオシャレな部屋を開けっぱなしにしている人もいます。汚い部屋でも気にせず開け放って住んでいる方もおられます。グラフィックデザイナーの方などは個室で仕事をされているようですが、リビングが活用出来るのもあって、そういう人はあまり多くはないようです。

能作:入居者を募集する際に、何かしらの審査基準はあるのですか?

常山:当初は大きなリビングを利点として、アトリエや作業場などに活用してくれる人を想像していたのですが、実際に生活をしてみた結果、価値観が近い人がいい、というのがわかったみたいです。内見に来てもらって話してみると、だいたいわかるので、それで決めているみたいです。さらに他のシェアハウスに比べるとそれなりにいい家賃を設定しているので、内見に来て、住みたいといってくれるのは家の価値が、共有できる人がほとんどなようです。実際には、ファンドやベンチャー企業に勤めるような割りとホワイトカラー層が入っています。大きなリビングが日常的にくつろぐ空間として家の価値につながっているのは、予想外であり、面白いと言っていました。

能作:どういったライフスタイルへの価値観を持った人で住んでいるのですか?

常山:サービスを受けようとして住むのではなく、自立した生活観念をもった人たちみたいです。互いにどこまで助け合い、どこまで干渉しないのかを自身で見極められる、というのも大事だと伺いました。シェアハウスの中には、居住者が掃除などのサービスを受けたがるものもあります。これだとオーナーの負担が大きくなり、共同で住まうことが次第に難しくなります。部屋を借りるというよりは家を共同で運営するという感覚を持って、自分が住む家なのだから自分で掃除も管理もやりたい、困った事があったら、自分たちの中で話し合って解決したい、という自立した意志を持った人たちだそうです。

能作:入居者の入れ替えはどうですか?

常山:比較的回転は速いみたいです。一番長い人で2年住まわれましたが、基本的には1年周期ぐらい。海外研修で来ている人などはさらに短い半年サイクルです。

能作:短期あるいは中期、そういう流動的な環境と人の移動とマッチしているんですね。

常山:バランスとしては、日本人は長期型、海外の人は短期型、といった違いがあるみたいです。生活する中で、長く住んでいる人からまちの情報を得たり、逆に他所から来たひとから語学や郷土料理などの別の文化や考え方を教わる新鮮さがあったり。都心にあるので通勤の時間と労力が節約でき、そのぶん家で過ごす時間が増える、そこでの時間の豊かさが一つの魅力としてあるようです。

辻琢磨(403architecture [dajiba])《浜松中心市街地の共同ビル》

能作:403architecture [dajiba](以下、403)は浜松を拠点に活動をされています。先日現地で一連の作品を拝見しました。特に面白いと思ったのは、浜松市の中心市街地にある共同ビルでした。まず、歴史的な背景を含めてそこでどういう現象が起きているのか、そして403が関わることになったきっかけを教えていただけますか?

辻:この図は中心市街地の半径300mで関わった物件です(fig1)。青いラインで囲っている部分が共同ビルです。共同ビルは、浜松が第二次世界大戦に焼け野原になって、戦災復興する際、特に高度経済成長期に建てられた防火帯建築で、隣り合う複数の敷地オーナーが共同で一つの建物を建て、広い面積を効率良く使えるようにつくられました。角地や大きな道路沿いに多く立地します。

fig1:©403architecture [dajiba]

fig1:©403architecture [dajiba]

浜松では、00年代以降、郊外に大型SCが進出して、市街地の衰退と空洞化が進んで行きました。いわゆる地方都市の中心市街地の典型です。そのような状況の中で、共同ビルの多くは権利関係が複雑で部分的に壊せない、オーナーの所在が不明確で建て替えが進まない、ということで取り残されているのが現状です。
我々が関わることになった経緯としては、これも「結果的に」という言い方が正しいのかもしれませんが、世間的にもストック活用がリノベーションブームの中で受容されていたタイミングと、自分たちの活動の開始時期が重なったことが大きいと思います。加えて、RC躯体には杉板の型枠跡が残っていたり、階段の手すりがテラゾー風に仕上げられていたり、そういったビルの素材感や雰囲気に魅力を感じて、若くて感度の高い人たちが美容室や蕎麦屋として自分たちより以前から入居し、開拓してくれていました。

辻琢磨氏

辻琢磨氏

能作:同じ共同ビルの中で403以外のものもいくつか観させていただきました。どれも空間をうまく使いこなしていますよね。他にも設計者がいるのですか?クライアントが自分でやっているのかとも思いました。

辻:はい、初期のクライアントの多くはDIYで何でも作れるスキルを持っていて、僕らが入る前に幾つかの物件はクライアント自身によって既に改修されていました。施工についても、むしろクライアントから自分たちが教わることもあったくらいです。

能作:共同ビルに入居されている若手の商業者の方たちはいわゆる商店街組合のようなかたちで繋がっているのですか?

辻:もう少しゆるく繋がっていますね。もちろん一般的な商店街組合もありますし、パートナーの彌田徹が商店街組織と関わってはいますが、設計活動とは切り離されたものです。我々が関わっているクライアントは、商店街組合の構成員よりももっと若い30~40代の浜松出身の方々が多いです。

能作:彼らにすると共同ビルにどういう魅力があったのですか?少し入りにくい感じがありますよね。

辻:彼らは、お店のクオリティーを保つために、空間によって顧客を限定するような戦略を持っていると思います。ただ、設計で関わってきた《KAGIYAビル》と《三展ビル》は同じ共同ビルでも少し性質が違っています。
《三展ビル》は、後ろに町家があって、道路沿いの一部を共同ビルとしています。オーナーはその町家のおばあちゃん三人で、一般的な流通ルートではその物件には絶対にたどり着けない。
《KAGIYAビル》は、数年前に不動産屋が買い上げて、その社長が単独で仕掛けた物件です。《KAGIYAビル》の名前はメディアにもよく出ていて、浜松出身の写真家・若木信吾[1]さんによる本屋〈BOOKS AND PRINTS〉が入っていたりと、とても人気物件で、ほぼ満室に近いような状態です。

能作:お店を構える人たちが非常にユニークな方が多いですね。その中で、403の設計をみていると全体性をあえて放棄して、部分を設計しているようにも見えますが、どうしてですか?

辻:全体性を放棄しているわけではないですが、戦略的に部分に向かっているというより、オーダーや予算の関係などから必然的にそうなっている感覚です。例えば《渥美の床》(http://touron.aij.or.jp/?p=1549)はマンションの寝室改修の一部でした。元々天井の一部や他の部屋の内装はクライアントによって解体されていて、「寝室の床だけ悩んでいるから、やってよ」というオーダーでした。具体的な要望としては、「既存の畳は剥がす」、「フローリングは避けたい」、「ベッドを置きたい」、等がありました。そのような要件に反応していく中で自然とこの床に設計が集中していきました。

伊藤:そのオーダーに対する回答としては完璧だよね。

辻:もちろん全体については考えているし、自分たちが扱えるなるべく大きな枠組からスタディを始めますよ。ただ、予算や空間、施主の要望といった条件の中で、結果として限定した設計になっていく感覚です。
改修であっても基本的には新築の設計の考え方と変わらないと思っています。例えばRC造の共同ビルの一室に対してオブジェクティブな塊として構築物を挿入する時は、周囲の空間を敷地的に捉えています。部分と全体の関係を常に意識して、プロジェクトによってどの全体に抵触できるかを常に考えています。

吉本:《鍵屋ビル》立面の図面を拝見しましたが(fig2)、どの部屋もある部分だけが抑えられているのが面白いですね。

fig2:©403architecture [dajiba]

fig2:©403architecture [dajiba]

辻:時間を引き伸ばして考えれば、建物全体を漸次的にリノベーションしているともいえます。もう少し踏み込んでいえば、街全体が5年間かけて進む一つのプロジェクトであるということもできると思うんです。

能作:最後に今回のヴェネチア・ビエンナーレの作品を少し紹介していただけますか?

辻:まず運営側からの要望として人が座れる場所がほしいという条件がありました。それに対して我々が考えたことは、浜松のマテリアルを持っていくというよりも、浜松での活動と同じ態度で、現地の材料と条件に反応して作りたいということでした。そこで、ひとまずツテを探ろうということで、大学の後輩がヴェネチアの大学に留学していて、使えそうな資材がないかリサーチしてもらったんです。その中で、現地で活動されるヴェネチアンガラスアーティスト・土田康彦さん(http://www.tsuchidayasuhiko.it/)に辿り着くことでき、協力していただけることになりました。ヴェネチアは周知の通り運河の街なので橋が多く、ほとんどが組積造アーチです。そこで土田さんの知見を活かしたガラスブロックと、橋、組積造、アーチを繋げることで、現代のヴェネチアのコンテクストに合わせた構築を実現できると考え、アーチ状のガラスベンチを提案しています(fig3)。
構造は構造家の金田泰裕さんとの協同で、ブロック同士の接合はガラス専用の強力接着剤でおこなっています。これも土田さんに教えていただきました。大きさは、長さ3000mm、高さ600mm、幅300mmで考えています。
浜松外での活動という意味では、昨年開催された山口情報芸術センターYCAMでの展示「THINK THINGS」の会場構成(http://touron.aij.or.jp/?p=1549)があります。山口市内の廃公共施設に残っていた家具や什器を移動、転用させ、子供の遊び場を作るものです。今回も同様に、浜松での設計態度を、ヴェネチアに持っていくとどうなるかというのをお見せしたいですね。

fig3:©403architecture [dajiba]

fig3:©403architecture [dajiba]

伊藤暁《神山町プロジェクト》

能作:最後に伊藤暁さんに徳島県の《神山町[2]プロジェクト》(http://touron.aij.or.jp/?p=1559)についてお聞きします。まずは神山町に訪れるきっかけを教えていただけますか?

伊藤:きっかけは様々ですが、神山に入ったのは恊働する坂東幸輔が最初でした。私は別の経緯で神山に興味を持ったのですが、実際に行ってみたらこれが面白かった。何度も行きたいと思い始めて、通っているうちに段々仕事っぽい話になってきた感じです。

伊藤暁氏

伊藤暁氏

最初は、当時東京芸術大学の助手だった坂東が学生を連れて長屋の改修《ブルーベアオフィス神山》を始めたことから関わり始めました。その後、神山が楽しいのでなんとか理由をひねり出して、劇場《寄井座》の改修案を考えるワークショップを企画したりと、あの手この手で通い続けたという感じです。
「まちづくりに参加しよう!」というようなことではなく、行きたいと思っているから行っていた。神山町には街全体にそういう人たちが勝手に集まってきている雰囲気があって、そのオープンさがとても魅力的でした。
「まちづくり」って、一歩間違えると「まちのために自分を犠牲にしてでも貢献できるのか」、みたいな同調圧力を帯びがちで、最初は盛り上がっていても、そのうち疲弊してしまうようなケースが散見されるのですが、神山はいい意味で自分勝手なんですよ。自分の生活を楽しくしているというか、主体的に生活してる感じがある。目の前の状況に対して、使いこなす、乗りこなす、積極的な人が多いんです。目の前のダメな部分をネガティブチェックするのではなく、ポジティブな面に着目して転換する。そういう人たちと話していると、こっちまでポジティブになってきます。

能作:私も神山に実際にいってみて話を聞いていると、「ここでなんか出来そうだな。」と感じてしまう、そこに可能性のようなものを感じました。例えばウェブデザイナーが自分で改修したり、林業と組み合わせたプロダクトデザインとかがあったりもして。そんな神山で《えんがわオフィス》(http://touron.aij.or.jp/?p=1559)を建てるきっかけは何だったんですか?

伊藤:クライアントは映像・放送関係の業務を行っている企業です。3.11以後の危機感から、東京が大規模災害にあった際に業務を止めないためのバックアップオフィスが必要と言うことで、経営者の意向もあり、田舎というか、地方をターゲットに候補地を探していたようです。20箇所程度を視察した上で神山に決めたのですが、なぜよかったかというと、神山にはいわゆる企業優遇処置なかったんですね。それ以外の場所は優遇措置のチキンレースみたいになっていて、おそらくそこに疲弊の信号を感じたんじゃないでしょうか。町の人達も「やりたきゃ、やりゃいい。」的な感じだったそうです。
とはいえ、今まで空家だった民家に東京から企業がやってきて大勢の人たちが働きはじめることは、地域にとってはそれなりのインパクトです。その関係性を調整することは空間的に非常に重要な問題で、《えんがわオフィス》ではガラス張りの外壁とおおきな縁側という境界の操作を行いました。手法的にはやや大げさで派手に見えるかもしれませんが、実質的な効果に加えて、形態がスタンス表明になることも重要な要素だと考えています。

能作:《WEEK神山》についても聞かせもらえますか?

伊藤:《WEEK神山》は山、川、空、集落などに囲まれた豊かな周辺環境を活かした宿泊施設です。この環境の中に放り出されたような客室を実現するために、筋交いや耐震壁を必要としないラーメン構造を採用し、350φの丸太材を町内の山林から伐採して使っています。

一般的な建材の生産・流通の仕組みから考えるとこれはイレギュラーな方法に見えるのですが、実は僕たちが依存しているその仕組みって、戦後に発生した大量の住宅需要に応えるために整備されたものです。生産から施工まで、一気通貫にカスタムされたその仕組みは確かにとても効率的なんだけど、人口減少が始まり、空き家も増え続け、ストック活用の重要性も高まっている時代において、不具合が発生し始めていることも事実です。「仕組み」の前提というか、背景が変わってきたとき、別の方法が合理性をもつこともあり得るわけで、WEEK神山では、生産と消費の場所が近い、という特性が、別の合理性をもたらしてくれたということです。
これが新しいのかどうかはよくわかりませんが、いままで「なかったことにされていた」方法がたくさんあり、現状の仕組みがスタックし始めた際に、その背景から点検しなおしてみることで、現代的なものの作り方に接続できるのではないかと考えています。

能作:丸太の柱から、大工の技術、製材のしくみ、地域の山林というふうに、モノの流れを遡っていって、ネットワークを構築しています。人や物を資源として捉えていますよね。

伊藤:「もののあり方から学んでいく」ことはすごく大事ですね。今日ここに来る前に蟻鱒鳶ルの岡啓輔[3]さんに会ってきたけど、彼の方法も一般的な仕組みとは別の視座がある。これまでのバイアスをいかに取っ払って、もののあり方を呼び戻すのかが重要だと思っています。それが例外なのか、普遍性になりうるものかを考えたい。神山町は、いわゆる高齢化した過疎の町で、一般的な感覚だとネガティブだらけな町なんだけどなんであんなにポジティブなのか、そこに触れるなかでいろんなことを教えてもらいましたね。

「偶然性」と「有限性」

能作:4人のお話しのそれぞれに共通するキーワードとして、「偶然性」があると思いました。「偶然性」をどのように引き受けて、人やモノとのつながりを築いていくのかが大事だと思いました。伊藤さんたちの建築のつくりかたは、アクターネットワーク論[4]と共通点があるように思います。403も《共同ビル》というコミュニティや古いコンクリートのビルの質感などを資源として取り出してるように思いました。また、仲さんがおっしゃっていた「ギブアンドテイク」という言葉は、あくまで相互の関係に閉じていますが、《食堂付きアパート》は、さらにそれを拡張して、ギブンアンドギビング(given and giving)の関係性が生じてきているように思います。つまり見返りを求めないような関係性です。これは新しい関係を創出していく動きとして捉えられます。与えられて、また別の仕方で与えていくという利他的な行動の連鎖です。このようにクライアントがまちに贈与していく主体を建築でサポートしていくことが大事だと考えます。

辻:BUSの神山町での活動のように、従来とは違う切り口で都市を読み解くためのインターフェースをつくることはとても意義深いことです。建築家は、都市をコントロールする主体というよりも、観測者やリサーチャーに近い存在として機能しているとも言える。一方で、それは建築家が計画することを諦めているということでは決してないと思います。計画した上で、その計画によるまちの反応を引き受ける関係を築くことができるのかが重要だと感じます。

能作:計画という考え方のなかに、世界は無限に成長していくという近代特有の信念が前提にあったのではないかと思います。縮小していく社会や枯渇していく資源のなかで、私たちは世界の「有限性」について考えなければいけないのだと思います。この「有限性」のなかで計画とは何かを位置づけていくことが求められているのでしょうね。

辻:範囲を限定すれば、資源へのアクセシビリティが増え、資源同士の連関を紡ぐことができますよね。つまり、何かを限定することは、その限定した範囲の内部に無限の選択肢を作り出すことにもなると思うんです。我々は浜松という場所を限定的に捉えたことがスタートでしたが、それは別に浜松じゃなくてもよくて、いきなり独立してスキルも経済力もない状態でもどうにか食っていけそうだったから浜松を選んだということ。自分たちにはできないことがあるという有限性と、浜松という範囲の有限性とが結びついた結果が今の活動につながっていると思います。

能作:仲さんは、山本理顕さんの提唱される地域社会圏に関わってこられました。《食堂付きアパート》では、地域社会圏モデルとの違い、あるいは山本さんとの違いのようなものはあったのですか?

仲:こう言ってしまうと身も蓋もないですが、地域社会圏モデルとの違いは大したことじゃないと思っていたかも知れません。むしろ、《食堂付きアパート》は、近代の産物である専用住宅—外で働き家に帰って食べて寝る、そんな生活のための住宅—の実践とは大きく違う。この違いだけを意識して設計していたからです。
強いて言えば、地域社会圏では「地域内ワーク」という稼ぎ方を提示していましたが、僕の言う「小さな経済」はもう少し広義です。情報技術の進展とともに現実に起こっている状況も含めた概念です。《食堂付きアパート》は地域社会圏と違って規模が小さいので、既存市街地と相互依存の状態にする必要がありました。下町だったり商店街だったりの生活や活動を観察して、概念を拡げたようなところがあります。そうすると、個々人の生業(趣味・特技が高じての副業的なものも含みます)に宿る内発的な交流・交換への意識を住宅の形にすることが現実的に見えてきました。
ただ、いずれにせよ、地域社会圏での「見世」、《食堂付きアパート》での「スタジオ」と呼ぶ空間が住宅に内包されている、ということが重要です。本質的には住宅の提案だということです。共用部を取り出しての提案ではないし、イベントでコミュニティをつくりだすというものでもない。だから《食堂付きアパート》は地域社会圏と概念的に地続きです。
交流や交換への意識をどう建築化するか、ということと、先ほど能作さんがおっしゃった「偶然性」という言葉は重なるかも知れません。「与え、与えられ」という関係性は、まず前提として繋がるチャンネルがないといけない。住戸内のスタジオ、立体路地、食堂といった中間領域を折り込みながら、住宅のプライベートな部分から街路までが接続されています。

能作:先日、北山恒さんとお話をしたのですが[5]、産業革命後の西ヨーロッパの都市に農村から都市労働者が流入して家族単位による住まい=住居というビルディングタイプが生まれ、その後の都市化が進行するにつれて住宅地とCBDという分割された都市空間が整備されるに至ったということでした。仲さんがおっしゃるように、情報社会によって、住む・働くのスタイルが変わって、より近接した状態になっていくかもしれません。しかし同時に住む・働くの分割で組み立てられた都市空間を前提に、再編しなければいかないということがなかなか難しい問題になっていると思います。
このようなライフスタイルの問題だけでなく近代のモデルというのは様々なところで綻びをみせているように思います。近代には成長という信念があって、それが近代特有の共通性や規範をつくりあげてきたのではないでしょうか。現代の問題というのは、そういう規範性が薄れてきたとき、どのように偶然性に対処したらいいか分からなくなってきているということなのかもしれません。もうひとつは、都市をはじめとする建造環境は近代のうちにつくりあげられてしまい、人間が生きていくには十分に整備されているとさえいえます。しかしその建造環境が朽ちていくことを近代は深く想定していなかったのではないかと思います。そのことに我々はどう考えて対処していくのかが問われているように思います。403の共同ビルの例のように、そこに現代的な解釈を与えて展開させていくことが必要だと思っています。

常山:先日、神山町を訪れた帰りに、思想家の篠原雅武さん(http://touron.aij.or.jp/?p=1926)に「今回の縁の建築家たちはなぜ前の世代と違う考え方をもっているのですか?」「何がきっかけで変わったのですか?」と尋ねられたことがあります。
そのときは答えられなかったのですが、皆さんのお話を聞いていて、クライアントの価値観の変化が大きいと思いました。近代のわかりやすい指標として、マイホーム、マイカーという同じベクトルに向かうものがありました。現代はよりクライアントの価値基準が多様なのだと思います。
《不動前ハウス》ではクライアント夫妻は、奥さんは不動産業、旦那さんは会計士でした。ラショナルで論理的な思考ではっきりとしているのですが、一方でそうでない部分、心地よさとか楽しさとゆるい判断基準を持っていました。
その人なりの価値基準みたいなのが、周りの固定観念に関与せずに決められていく。「縁」のメンバーと共有できるのは、そういったクライアントの個性や状況を引き受けながら設計を進めて行く部分じゃないでしょうか。それは「偶然性」にも繋がる気がします。

辻:クライアントという定義自体がそもそも曖昧ですよね。プロジェクトを通した関わり方だけでは、その人との関係を表すことができないことも多々あると思います。
能作さんの仲さんへの質問とその回答についてですが、上の世代の建築家と意思疎通できないところがあるというのはなんとなくわかるのですが、僕はむしろ「共通する部分」が何なのかが気になります。
そういう意味で、仲さんの《食堂付きアパート》を知った時、仲さんは地域社会圏でやろうとしていたことを現実に落とし込んで実現させたんだということがわかって、その地続きな歴史の実現を僕はうれしく思いました。
自分の浜松の生活でも、地域社会圏の思想を、一つの敷地の中での計画というよりも街全体によって実践できているという感覚があります。違う歴史を持った世代と比較して、違う部分だけではなく同じ部分がわかると、関係を持たせられる。そうして得られる歴史への実感というのは、私たちにとって、大変豊かなことだと思います。

定常社会の新たな思想

吉本:私の専門が近代都市史ですが、現代は近代から切り離された時代ではなく、近代の延長であるとともに、そこからの変化が生じている移行期であると捉えることもできると思います。面白い考え方として、社会学者・見田宗介さんが、人口の増加が止まると世代間の価値観のギャップがなくなっていく、というようなことを言っています[6]。例えばJポップミュージックをみても10年前のオリコンチャートに入っていた多くのアーティストが今でも変わらず人気であり続けている[7]。つまり新しい世代が一気に生まれなくなっている。このことは、社会の価値観が世代の移行によって更新されるというモデルがなくなる、ということを意味していると思います。

吉本憲生氏

吉本憲生氏

このことをふまえると、今回の議論の中でも出てきた、シェアや「縁」のように、創造の際に限られたリソースの組み替えを重視する姿勢、あるいは先ほど辻さんがおっしゃったような歴史への態度は、実は近代以降の価値観を支配していた「成長」が終わった後の新しい考え方を示すものなのかなと思いました。

能作:今のお話に関連して、世界史上、大きくは3回の大規模な人口増加があったとされています。第一に人類大移動、第二に農耕・定住革命、第三に産業革命です。現在の日本は第三段階の人口増加が終わり、定常化した時代だといわれています。この定常社会のなかでも新しい思想が生まれると言われています。たとえば農耕・定住時代の後の定常社会から世界宗教が生まれたと言われています。産業革命の後の定常社会から新しい価値観が生まれてくると思います。おそらく新しいかたちのエコロジー思想なのではないかと考えられています。近代という爆発的な成長の時代は歴史的にはきわめて例外的な状態であったといえます。その爆発的な成長は人間の社会の枠組みを変え、心のもちようも変えたのではないかと思います。無限の成長という信念もそのひとつです。私たちはその成長モデルから抜け出して物事を考えていく必要がありますが、都市などの建造環境、社会システムをすぐにつくり変えられるはずがありません。つまり近代につくりあげた建造環境は私たちにバトンタッチされています。「近代があったことを引き受ける」ことから、環境を是正していくこと、細かく精査していくことは我々の仕事だと思います。

能作文徳氏

能作文徳氏

  1. 写真家、映画監督。1971年静岡県浜松市生まれ。ニューヨーク州ロチェスター工科大学写真学科。出版社ヤングトゥリー・プレス主宰。

  2. 徳島県神山町は県北東部、徳島市中心部から車で40分ほどに位置し人口は6,000人弱。自然豊かな周辺環境に加え、地デジ化に伴う県全域に敷設された光ファイバーによるインターネット網の充実がIT企業に選ばれる一要因となり、多くの企業や自治体が神山町にサテライトオフィスを構える。

  3. 1965年、九州柳川生まれ船小屋温泉育ち。有明高専卒業後、土工、鳶、鉄筋工、型枠大工、2×4大工など現場で職人として働く。毎夏、高山建築学校に参加。舞踏を学び、岡画郎というスペースを運営していた。東京三田で鉄筋コンクリートの小さなビル「蟻鱒鳶ル」をセルフビルド中。

  4. 『10+1Webサイト』「論考:建築におけるアクターネットワークとは何か《高岡のゲストハウス》」http://10plus1.jp/monthly/2015/02/issue-04.php

  5. 北山恒×能作文徳×宮崎晃吉「巻頭座談会:住宅から都市を変えられるか」『新建築住宅特集』2016年4月号 pp.18-23

  6. 人口面でいえば、日本の人口統計をみると、明治期以降戦後期までの人口大爆発期、および人口ピークを経て現在の少子化時代となっており、また地球全体としても1970年代を境に、人口の増加率が減少している。こうした時代背景のもと、見田は、人々の意識構造に関して、現代の親子の趣味やファッションにおける世代の差の小ささを例として挙げながら、「歴史というのは加速度的に進むのがあたりまえと思っていた70年代までの人々と比べて、現代はだんだん歴史がスローダウンしているということはいろんな思想界やファッション界などに現れてきている」と述べている。(見田宗介、『現代社会はどこに向かうか《生きるリアリティの崩壊と再生》』、弦書房、2012)

  7. 音楽ジャーナリストの宇野惟正は、1998年から2014年までの日本の音楽シーンに関して、「1982年から1998年の16年間における『歌謡曲の時代からJポップの時代へ』というようなドラスティックなシーンの変化は、次の16年間ではまったく起こってない」と述べている。具体的には、1998年の年間シングル・チャートの上位20の大半を占めた複数のアーティストが今でも、スタジオでもアリーナを満員にできるトップクラスの動員力を維持していることを指摘している。(宇野惟正、『1998年の宇多田ヒカル』、新潮社、2016)

仲俊治

建築家。1976年京都生まれ。2001年東京大学大学院工学系研究科建築学専攻修了。2001−08年山本理顕設計工場。2009年建築設計モノブモン設立。2012年株式会社仲建築設計スタジオに改組。2009−11年横浜国立大学大学院Y-GSA設計助手。現在、横浜国立大学非常勤講師、明治大学非常勤講師、関東学院大学非常勤講師。主な作品:《食堂付きアパート》(第31回吉岡賞、グッドデザイン2014金賞他)、《白馬の山荘》(第16回JIA環境建築賞優秀賞、中部建築賞金賞他)、他多数。

伊藤暁

建築家。1976年東京都生まれ。2002年横浜国立大学大学院修了。2002年−2006年aat+ヨコミゾマコト建築設計事務所。2007年伊藤暁建築設計事務所設立。2010年−首都大学東京非常勤講師。2011年−東洋大学非常勤講師。主な作品:《えんがわオフィス》(第1回JIA四国建築賞優秀賞)、《WEEK神山》、《横浜の住宅》(第59回神奈川建築コンクール優秀賞)、《半丈の書架》(2014年ジェルコリフォームデザインコンテスト部門別最優秀賞)他多数。

常山未央

建築家。1983年神奈川県生まれ。2005年東京理科大学工学部第二部建築学科卒業。2005−06年Bonhôte Zapata Architectes スイス・ジュネーヴ。2008年スイス連邦工科大学ローザンヌ校(EPFL)修士課程修了。2008-12年HHF Architects スイス・バーゼル。2012年mnm設立。2013−2015年東京理科大学工学部第二部建築学科補手、2015年 同校助教。主な作品:《不動前ハウス》(SDレビュー2013入選、2015年住宅建築賞)、《インフォプレイス》、《白山の立体居》。

辻琢磨

建築家。1986年静岡県生まれ。2010年横浜国立大学大学院建築都市スクールY-GSA 修了。2010年Urban Nouveau。2011年メディアプロジェクト・アンテナ企画運営。2011年403architecture [dajiba]設立。2015年大阪市立大学非常勤講師。2015年滋賀県立大学非常勤講師。主な作品:《渥美の床》、《海老塚の段差》など。《富塚の天井》にて第30回吉岡賞受賞。

吉本憲生

近現代都市史研究。1985年大阪府生まれ。2014年東京工業大学大学院人間環境システム専攻博士課程修了。同年博士(工学)取得。2014−2015年東京工業大学特別研究員。2014年−現在横浜国立大学大学院Y-GSA産学連携研究員。第5回ダイワハウスコンペティション優秀賞。2012年度日本建築学会関東支部若手研究報告賞。

能作文徳

1982年富山県生まれ。建築家。2012年東京工業大学大学院博士課程修了。博士(工学)。現在、東京工業大学大学院建築学専攻助教。2010年「ホールのある住宅」で東京建築士会住宅建築賞受賞。2013年「高岡のゲストハウス」でSDレビュー2013年鹿島賞受賞。主な著書に『WindowScape』(共著、フィルムアート社、2010)、『コモナリティーズ ふるまいの生産』(共著、LIXIL出版、2013)、『シェアの思想/または愛と制度と空間の関係』(共著、LIXIL出版、2015)。第15回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館展示にて出展予定。

川井操

都市・建築計画学。1980年島根県生まれ。2010年滋賀県立大学大学院環境科学研究科博士後期課程修了。博士(環境科学)。2011-13年中国北京の都市設計事務所に勤務。2013−15年東京理科大学工学部建築学科助教。2015年より滋賀県立大学環境科学部環境建築デザイン学科助教。

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