場所:ホテルグランヴィア大阪
日時:2016年3月10日(木)14時-16時
対談:篠原雅武×能作文徳
記録・撮影:和田隆介
「縁」と「act」
能作:第15回ヴェネチア・ビエンナーレ建築展の日本館のテーマである「縁」について、篠原さんにお聞きしたいと思います。キュレーターの山名善之さんから提示された「縁」というキーワードについて、当初から「おもしろい」と関心を持っていらっしゃいました。
篠原:日本の言葉でありながらも、世界にむけて発信できる概念であると考えたからです。縁は、人間生活の条件に関わる不可思議な言葉ですが、思いもよらないつながりを生み出すというニュアンスもある。偶然の関係が形成されていくことと、その関係が保たれていくこと。このように、仏教に由来する「縁」という言葉は日本古来の生活感覚に根ざしつつも、偶然性、出会い、関係性という、英語でも説明可能な意味が込められている。そこが面白いと思いました。
ただもしかしたら、私がもともとハンナ・アーレントを読んでいたのでピンと来たのかもしれません。アーレントの言う「act」の観点から、縁が意味することを捉えたのでしょうね。つまり彼女は『人間の条件』で、人間は何かを始めることで、何かを動かす(to set something in emotion)ことができる、人間のアクションによって、あり得ないくらいに予期不可能なことが起こりえる(the fact that man is capable of action means that the unexpected can be expected of him, that he is able to perform what is infinitely improbable.)と述べています。アーレントは公共空間に対応するものとして、人間のアクションについて述べているわけです。公共空間における予期せぬものの大切さについてアーレントは強調しているわけですが、「縁」という言葉はそこと呼応するところがある。さらにもう一つ、アーレントは、行為には関係性をつくりだしていく潜在力があると述べています。これも、「縁」に含まれている関係性の意味合いと対応している。
能作:アーレントの「act」は「活動」と訳されていますね。政治の場での発言や行動という意味合いが強いと思っていました。また、アーレントは机のまわりにみんなが集まっている空間をメタファーとして提示していたと思います。そこではどこか用意されたような空間だと感じていました。しかし偶然の予期せぬことに対して「act」していくように捉えれば「縁」と「act」はつながりのある言葉として感じることができます。
非西洋型公共空間としての「縁」の空間
篠原:ジョージ・ベアードという、トロント大学で長く教えていた建築家であり理論家がいます。先日オランダのデルフト工科大学でシンポジウムがあり、そこで講演してきたのですが、ベアードとはそこで知り合いました。彼は、アーレントの『人間の条件』は人生を変えるほどの本だった、と言っていました。そこから、『現われの空間(The Space of Appearance)』という、アーレントのキーコンセプトをそのまま表題にした重厚な建築論を書いてしまった。つまり建築家が、建築の問題を考えるためにアーレントを読むことは別に不思議なことではない。そして、ベアードが着目するところも、まさに「act」という言葉だったりします。予期せぬことを起こし、関係性をつくり上げていく現場が公共空間であるという捉え方ですね。彼と話して思ったのは、「縁」的なものが支えになって人の生きる空間が形成されると哲学的に考えることは、別におかしなことではない、ということでした。
ただし、アーレントが言う公共空間は、ギリシアや古代ローマのイデア=理念への回帰を志向するものでもある。その点は、私のような東洋人には今ひとつ分からんなあと思いましたし、率直にそうベアードには言いました。デルフトでの講演のあと、アムステルダムの都市を歩いていて改めて感じたのは、外部空間が理念として存在するが故に維持されている、ということです。やはりヨーロッパだからだと思います。外部空間としての公共空間が形成されていることが背後にある、歴史的かつ思想的な重みは確かに存在すると感じました。その理念そのものを日本にそのまま移植するのは、なかなか難しいのではないでしょうか。ヨーロッパの重厚な公共空間の理念を日本に移植し、それから建築空間として現実化する。明治維新からのひとつの理想なのでしょうが、維新から150年ほど経った今も、理念の移植はほとんど進んでいない。一部の知識人の頭の中にはあるかもしれぬが、一般庶民はそんなこと知らない。別にそれでも良いというのであれば、長い間日本で維持されてきた生活感覚を大切にしながら、それでも公共的に開かれた空間をつくるしかない。そうであるならば、アーレントの言う公共空間とはズレが生じるのは仕方のないことです。ヨーロッパ型のリジッドな公共空間とは違った公共空間が日本でもあり得るとしたら、そこで支えとなりうるのは「縁」的なものでしかないでしょう。偶然、関係という言葉は英語でも説明できるけれど、「縁」という言葉にあるリジッドではない流体的な自然性、雰囲気は、なかなか説明するのがむずかしい。別に西洋と東洋のどちらが優れているかというような話をするつもりはありませんが、それでも、ギリシア・ローマの公共空間と縁の公共空間の違いには意識的になりたいものです。
「縁」というキーワードで今回の展示をまとめていくことは、「縁」的なものに則した空間の公共性が、現代の日本において形成されつつあることを提示することに他なりません。私個人の見解では、それを欧米的な公共性の理念とは違う公共性として提示したらいいと思います。日本では、人々が共に生きていくための空間が、欧米的な基準からいうとパブリックなのかプライベートなのかはっきりしない「縁」的な空間(あわいの空間)として形成されている。それを今回のヴェネチア・ビエンナーレでプレゼンテーションできないかと思いました。
都市における物質性と透明性
能作:ヨーロッパの建物は概念的としての堅さ、物質的としての堅さの両方を持ち合わせているように感じます。通りには堅い壁が建ち並び、公と私を分割しています。日本で木造建築のリノベーションの仕事に関わっていると、既存の古いものに新しい要素を加えたときに、あたかも古いものと新しいものとが連続しているかのようにつくることが可能です。しかしヨーロッパの事例だと、内装を変えたりするとしても、どうしても新旧が対比的にできてしまうことが多いように感じます。日本でリノベーションすると、もう少しやわらかく軽くできる。日本の都市は、このように木造の建物が下地となっているので、パブリックとプライベートがはっきり分かれていない。偶然性を引き受けやすい骨格を元々備えているのかもしれません。
篠原:理念としての公共空間が先にあって、それを実現していくことがヨーロッパでは可能でした。しかし日本だと、すでにある人間の集まりの場のほうに理念が引き寄せられて「日本化」されてしまうようなところがある。とりあえず「公共性」という言葉は使うが実際は日本的な内向きの集まりでしかない。逆に、ソリッドな強さが具現化された空間があっても、日本では今ひとつなじまない。それでも強くソリッドな公共空間をつくることを通じて弱さを克服しようなどという議論もあるのかもしれませんが、それはなんだか無理矢理だし、そもそもそんなことしていたら疲れませんか?理念の日本化か、理念の独走かという両極化ですね。どちらがいいのかわかりませんが(私はどちらもイヤですが……)。
能作:ソリッドな公共建築は箱物と呼ばれて批判の対象になります。公共施設の前面につくった広場が日常的に生き生きと使われていないということはよく起こります。
篠原:一方で、過度にソリッドな公共空間に対する批判は西洋にもあります。ベアードも、透明性(transparency)というロジックに対しては批判的です。近代建築が目標とした透明な空間をつくることは、過度な監視状態を生んでしまうと。彼はベンサムのパノプティコンの理論を引き合いに透明性の論理を批判していきます。透明性の論理で消されていく不明瞭(obscure)なものや曖昧さ(ambiguity)を含むかたちで、公共空間はつくられるべきだと言っています。
そのとき引き合いに出されるのがベンヤミンの「ディストラクション(distraction)」という言葉で、これは気を散らせている状態を意味します。曖昧なものが色々なところに広がっていれば、注意が色々なところに向けられますが、それが透明な空間だと単一なものにしか注意が向けられない。不明瞭(obscure)なものに囲まれているほうが、実は居心地がいい、ということなのでしょう。ソリッド過ぎることに対する居心地の悪さは、欧米人も日本人も共通して感じている。
欧米では60年代から批判されているような透明な空間形式を日本に導入してみたら、それが日本人の身体感覚には無理のあるものだった。日本の場合、さらに透明な空間のなかに充満する音がすさまじい。それはともかく、能作さんたちの作品を見学させてもらって感じたのは、この無理への反省があって空間をつくっているのかな、ということでした。ただ口先だけで批判するだけの私のような人間とは違い、ちゃんとつくっているのはすごいとおもいますよ。
領域を複数化していく
能作:個人住宅や改修のプロジェクトでも、単純なことですが「人のつながり」からヒントを得ることがあります。《高岡のゲストハウス》には、現在祖母が一人で暮らしていますが、もともとは祖父母、両親、私と弟という三世代が住む住宅でした。祖母一人には広過ぎる住宅に、私たち自身が訪れるきっかけとなるような空間をつくっていこうと考えました。まずは宿泊ができるようにゲストルームをつくったり、母親がお店を開けるスペースを用意したり、家族や友人を呼んで見守ることができるような環境を整備することが、このプロジェクトのきっかけでした。
篠原:一つの家を、複数の空間へと分割しつつ連関させていくということでしょうか。ひとりのおばあちゃんが住んでいるだけではなくて、いろいろな人が関わる余地を含んだ緩やかな空間につくり替えていく、ということですね。
そのあたりを考えるうえで、ドゥルーズ=ガタリが『千のプラトー』の「リトルネロについて」でおこなっている「領土性」の議論が参考になります。そこで彼らは、領土とは一つの行為であり、環境とリズムを触発し領土化を起こす、という話をしています。そしてリズムはある種の表現性を持つと言っています。「領土化は、表現性をもったリズムがおこなう行為」である、と。《高岡のゲストハウス》では、一つの空間を、領域とリズムを持つようないくつかの空間へと、分割しようとしている。ゲストハウスが持つ場の質感には、囲まれることで形成される領域性と、一定のリズムが複数存在するということではないでしょうか。ドゥルーズ=ガタリは、空間には、外部的な空間と内部的な空間だけでなく、中間的な空間、境界的な膜のような空間などがあるといいます。つまり、テリトリー化するということは、内部を囲って外から区別するだけでなく、境界的な領域をつくりだすことで「つなぐ」という側面がある。分割された各々の領域が、それぞれの独自の「リズム=質感」と表現性を備えつつ、境界的な膜の空間を介してつながっていく。こう考えていくと、今回のヴェネチア・ビエンナーレの出展作家の皆さんが取り組んでいることを、より深く捉えられるのではないでしょうか。
能作:確かにみんな単一ではないものをつくっていますね。
篠原:最初に複数であることを計画しているわけではなく、その場で実際に進めていく中で、独特の質感とリズムを湛えたテリトリーとしてつくられていくことを大切にしているように見えます。実際にそこで人々が何かをしていることを含み込むことを許すものとして、テリトリーをつくっている。つくられたテリトリーは、それぞれに区別されつつも連関していく。複数の空間が、それぞれに不透明な状態で曖昧性を保ちつつ、単一の透明な全体へと統合はされていないが、つながっていく。
能作:《高岡のゲストハウス》では、クライアントでもある母親がいろいろな要望を出してきたので、実は最初は欲張りだなあと思っていたんですよ。だけど結局私たちは納得して、その要望の複数性を認めていきます。ひとつの家を三つに分割していく中で、建物自体も複数の用途に対応するように、どこを壊してどこを保存すべきかの議論になってくる。その中にもそれぞれの独自性と領域性が発生する。それらがまったく別様では困るので、そこにまたつながりを持たせていく。さらに周囲の街並と連続させていくことを考えていました。
不透明な開放性
篠原:透明じゃない共存の空間が目指されているのかなと感じました。ドットアーキテクツの《馬木キャンプ》も三つに建物自体が区分されていて、前の広場とつながっていくようにつくられている。あそこで良いなと感じたのは、真ん中の庭が、そこに身をおく人を放っておいてくれる雰囲気を発していることです。集まるための広場としてつくりだされているはずが、いかにも集まることを強いるような脅迫感がないところです。
能作:ものが即物的に「ごろん」とあることと、人が居ることが両立している。ものが「ごろん」とあるから人も「ごろん」といてもいい。そういうところはドットアーキテクツの魅力かもしれません。
篠原:集まるための空間が、透明で均質ではなく、分けられつつ連関することで、多様なリズム、質感を生じさせている。それが、集まらないでいること、ただぼんやりとしていること、ほったらかしてくれることをも許容する。集まらなくてもいいからこそ、逆説的に集まってしまうというか、そんな緩さが漂っていますね。
能作:透明性や連続性は近代の目指した空間像でした。それは建築の領域でも概念的かつ物質的に様々な批判がなされてきました。ただ同時に「開かれている」という意味での透明性は依然として重要だと考えています。透明性が批判されたからといって、閉じてしまえば良いということではないと思います。透明性に対する批判は、開いていくことを批判しているのではなく、透明性という概念で生まれてしまった悪い部分への批判だと捉えるべきでしょう。私も窓を大きくするのが好きなのですが、それは透明性をつくるというよりも単純に開きたいからです。外の環境が内側に影響を与えるような関係です。また窓を大きくして開きすぎることでできた公私のアンバランスを、他のエレメントをうまく用いることによって再びバランスさせていくことを考えています。そうすると開くということがきっかけになって、環境も含めた様々なファクターによる複雑な均衡のなかに建築が位置づけられていくことになります。
篠原:ベアードも、透明だけど閉じている空間は批判されるべきだと言っています。それは社会的なコンテクスト(social context)と切り離されてしまっているわけです。自閉しているけれど内部は透明な状態。内側が首尾一貫した論理で統制された状態で、しかし外からは切り離されている。ベアードが批判する透明な空間では、強力な単一の透明な論理が貫徹されていて、その連関が断たれてしまっている。これは能作さんたちがつくり出している「透明感」とは違うと思います。ベアードが批判する透明性は、硬直した窮屈さと結びつく透明性であって、能作さんたちは「緩やかさ」をつくり出しているということでしょう。この「緩やかさ」も、皆さんの建築を見せてもらって共通に感じたことのひとつです。空間に対して「緩やかさ」を生み出すことは、実は建築家にしかできないことではないかと改めて感じました。そこには建築家の特殊な技術や技能が必ず入り込んでいるはずです。
増田信吾+大坪克亘の《躯体の窓》は、窓というエレメントを1枚挟み込むことで、光の屈折を利用して庭を明るくしていく。室内側が、特殊な窓が1枚あるだけで不思議な広がり方をしていました。あの経験は、そこに身を置くことでしか感じ取ることのできない空間の質感ですね。透明性の論理では実現できないようなものが、窓によって可能になっているかのようでした。やはり閉ざす論理ではなく、窓を置くことで逆に室内を外へにじみ出させていく。1枚のガラスによる空間の変容の経験でした。あれは建築にしかできないことで、そこには凄みを感じました。
リズムの表現性:切ることとつなぐこと
能作:マヌエル・デランダも、ドゥルーズの議論をつかって「領土化と脱領土化」「物質と表現」について論じていますね。デランダはこの二つの軸でネットワークや集合体を論じています。
篠原:デランダに対するぼくなりの補足と注文を言うと、ある種時間的なもの、要するにそれぞれの人のもつリズムがある、ということをもっと考えたほうがいいと思います。デランダの議論はどことなく静態的で、動的なもの、リズム感が乏しい。ゆえに、ドゥルーズたちが領土性にはリズムがあり質感があると言ったことについては、デランダは論じることができていない。
それはともかく、ビジネスマンがしゃべるリズムと、学者がしゃべるリズムはちがうわけです。それはそれなりに住み分けがあるほうがいい。ビジネスマンのリズムでOKな空間と、そうでない空間がある。オフィスにはオフィスのリズムがあって、喫茶店には喫茶店のリズムがある。同じ自宅にトイレのリズムや寝室のリズムがある。その人の身体性と対応するリズムが空間にはある、ということです。時間と関係があるその人の営み、身体のリズム、時間の動き。それぞれの人がもつリズムを許容する空間があることが一番望ましい。それを言うのは簡単ですが、つくるのは大変でしょうね。
その点、ガタリが提示する「エコゾフィー(ecologie + philosophie)」という概念は重要です。そこでは、実際に人が身を置く環境と身体との結びつきを重視しているところがあって、そのときの身体性は抽象的じゃない。ある種の具体性を持った身体です。このように、ドゥルーズ=ガタリの議論には身体性がありますが、デランダには今ひとつそこが感じられない。
能作:建築家はリズムを無意識的に嗅ぎ取って調整をしているのかもしれません。たとえばリビングを設計するときも、身体の向き、座るときの低さ、窓から入ってくる光、床の心地よさ、天井の高さなど、さまざまな微妙なリズムを、物質を介して調整していると思います。さきほどの「緩さ」というのも、そうした調整の中で出てくるものなのかなと。
篠原:今村水紀+篠原勲/miCo.の《駒沢公園の家》を見たときに、たしかにその微妙なリズムのようなものを感じましたね。それぞれの空間が個性を持ちつつ切り離されていない。個室として切り離さないけど、緩やかに区別されつつ連関する。それがひとつの家としてつくり出されている。切ることと連関することが絶妙なバランスでつくりだされている。
能作:《駒沢公園の家》は建物自体がそれほど大きくないのに、それをさらに細かくするというのは異常なことです。だけど実際に中に入ってみると、空間が大きくなったように感じられる。小さいものと大きいものの広がりが同時に存在していて、亀裂があることで外ともつながることができている。
篠原:ただつなぐという分かりやすいロジックではなく、絶妙に切ることとつなぐことがバランスされていて、すごいと思いました。
周囲を変える建築:透明性の新たな活用
能作:BUS(伊藤暁、坂東幸輔、須磨一清)の徳島県神山町での試みについてはいかがでしょうか?私は町が変わっていく現象として非常に面白いと思いました。
篠原:《WEEK神山》がいちばん印象に残っています。遠くから観たらこれがあることで風景が変わっているなと。そのまま地面にくっついていたら、地面に縛り付けられているように見えたと思いますが、浮いていることでそこに隙間ができて、この隙間が周囲を引きこむようにしているために、いい雰囲気をつくりだしている。この雰囲気を何と言い表したらいいのかすぐには思いつかないのですが、能作さんはどう思いましたか?
能作:堂々とさせていますよね。高床式倉庫のような、神殿というか。「倉」という系譜は神殿につながっているという説もあります。倉庫は備蓄するために高床にしますが、物を溜めておくのでだんだん人間のスケールを超えていく。そうすると何か人間以外のものが存在するような雰囲気が出てくる。原木の長さを活かすためには、あのくらいの高さが必要なのかなと。木を神殿化したようにも見えました。《WEEK神山》では山から丸太を切り出してきています。そうしたネットワークを開拓していくところもおもしろいと思います。
《えんがわオフィス》では、町の人が一番驚くのはガラスで透明感がある建物であることだそうです。中の人の活動が見えることで、町の人を惹き付けていいます。
篠原:そういう意味では、先ほどから問題にしている透明性を逆転させているようなところがありますね。サテライトオフィスが東京からいきなり来ても、やはり地元の人は警戒するでしょう。そうした町の人の警戒心を解いてコンフリクトを発生しにくくするために、ガラスの透明性を活用している。それも緩やかさをつくり出す効果があったのかもしれない。透明性がうまく活用されていると考えると面白いですね。
一方で、内部は整然としてはいないがそれでも整えられている状態でオフィスがつくりだされているので、働いている人は集中できる。中の人は外へと意識が逸れることなく仕事に集中することができるが、内部に閉塞するのではなく、その様子が外の人に見える。集中できる領域性をつくりだしつつ、それが切り離されない。適度な連続性が保たれている状態で、透明性が活かされている。
能作:軒が深いので、昼間は内部の様子が見えにくい。ガラスから建物の中が見えるためには外よりも中が明るくなければならない。内部を黒く塗っているので、むしろ昼間は外より暗いからあまり見えない。部屋の内外の明暗を非常にうまく調整しているなと思いました。
篠原:《えんがわオフィス》ができたことで、あの一角が変わったという効果もあるのでしょう。オランダでも、美術館が改築されたのですが、一階部分が自転車走行可になっていました。このこともあってか、周りに新しくできた美術館との連関が起こり、さらに周囲が変わったと聞きました。ひとつの建物が周りを変える波及効果を持つことはあり得るわけで、《えんがわオフィス》もそのような実践として捉えることもできそうですね。
新しい唯物論:空間の質感をいかに記述するか
能作:最近、思想の分野でも、「物」にたいする注目が高まっているように思います。篠原さんの『生きられたニュータウン——未来空間の哲学』も、物が朽ちていく状態をどう見ていくかを問い直しています。そうした思想における物に対する着目と、建築の分野が交差していく予感があります。なぜ思想系で物への着目が始まったのでしょうか?『公共空間の政治理論』では「公共空間とは何か?」という抽象度の高い話をされていたと思いますが、そこから物質が朽ちていくことに着目して、実際の物を相手にするようになったきっかけはあるのでしょうか?
篠原:確かに、博論をベースにして書いた『公共空間の政治理論』のときは、アーレントとルフェーブルの議論の注釈で終わっていることがあったと思います。彼らが考えようとした公共空間、社会空間の内実をしっかりと考えたかったのですが、その先に行くことができませんでした。ヨーロッパ的な理念があり得ない日本の状況で公共空間を理論化するということですが、結局は抽象的な思考に終始していました。
そこでひっかかっていたのが、アレグザンダーの「都市はツリーではない」という問題提起です。彼の議論は、結局は抽象的なシステム論なのですが、にもかかわらず、現実をしっかり捉えているように錯誤してしまった。彼はニュータウンのような都市をツリー型の都市として批判しますが、この批判はニュータウンのような現実の都市をツリーというシステムに還元したうえでの批判です。そしてこのツリーに、セミラティスというシステムを対置する。彼は、セミラティスは現実に生きられている都市空間を完全に把握しているかのように語るのですが、じつは、まったくそのようなことはない。システムレベルの批判です。ぼくはただセミラティスを提示するだけでは不十分だと感じたので、アーレントを読みながらツリーでもなければセミラティスでもない都市空間像を考えていました。でも今思えばやっぱりシステム論的に考えていたところがあって、それではダメかなと思った。街を観察するときも、「ここはツリーだな」とか、理論を投影して見てしまうようになっていて、それではつかめないものがあるんじゃないかなと考えるようになりました。
『空間のために』を書くときのモチベーションもそこから来ています。あの本は、博論で書いたことを否定するために書きました。商店街の荒廃が2005年くらいから顕著になったと言われていますが、あるとき地方都市を旅行していたら、商店街がまるごとゴーストタウン化していたものを目の当たりにしました。そこで、物が現実に朽ちていることが気になったんですね。街が荒むとは、システムの破綻とかそういうこと以上に、実際に物が朽ちているし、歩いている人も疎らで、なんとも荒んだ空気感が漂っている。これをどう考えたいいかと悩みだしたわけですが、そこから、物の構築からできた空間の質感のようなことを考え始めたんでしょうね。
ただ、物をそのまま記述してもしょうがないので、抽象度を上げて、ドゥルーズ=ガタリを読み直していく中で、先ほど話した「テリトリーが持つ質感」に関する議論の重要性に気づきました。衰退していく商店街を表現性のレベルで見ると、弱っているんですね。商店街がシャッター化していく中では、表現する力がどんどん衰微していく。都市そのものが生気を失っていくことがあり得るんだなということを考え始めた。それは別にシャッター通り商店街に限らず、人の疎らな喫茶店や公園、団地、郊外の住宅地など、いろいろ歩くと気付くことがある。このあたりから自分の思考が転換していったんでしょうね。ただ、その段階での参照点はドゥルーズ=ガタリだったわけです。
ティモシー・モートン:人と物の相互性の思想
そうやって空間の質感のことを考えていたわけですが、いつも荒んでいくことばかり考えていて、そうなると私の心も荒んでいって、「これはダメだ」と思いました。そのとき、amazon USAをぼんやりと見ていたら、ティモシー・モートンの本を発見しました。不思議と惹かれるものを感じて、注文して取り寄せて読んでいたら、衝撃をうけました。ティモシー・モートンは『Ecology without Nature』の中で、表現性や曖昧性やアトモスフィアといった、感覚的に感じられるけれど、システムとして抽象的な言葉では捉えがたいモヤっとしたものを対象とする思考を、これから始めなければならないと言うわけです。それが2007年に出版されているのですが、ぼくは2012年にその話を知って、そこから急激にモートンの本を読み漁りました。
モートン自身が物への関心が高いかどうかは分かりませんが、少なくとも人間の思考や解釈のおよばないところで、物が朽ち、変わってしまうこと。物固有の予期不可能性と人間は付き合って生きている。予期せぬかたちで物による影響を受けているかもしれない。単に物があると言っているのではなくて、物との関係の中で人間が生きていて、その環境の中で人間は影響を受けてしまうことがあるし、物に影響を与えることもある、そういう相互性を考えているのでしょうね。だから彼は、そこからだんだん環境問題に話を進めていますが、彼の思考で一貫するのは、取り巻く世界と人間との感性的な次元でその関係性を問うというスタンスです。センシビリティの議論はドゥルーズがやっているので、その辺りを継承しているとも言えますね。そういう次元で物を考えようという気運が、近年高まっていると言っていいのではないでしょうか。ただ、ガタリの「エコゾフィー」もそうですから、今始まったというわけではなくて、80年代あたりからこういう話は始まっていたのだと思います。それが、今になって急激に重要度を上げてきた。
芸術とは「主体性の生産」である
能作:なぜドゥルーズ=ガタリは未だにそれほど重要なのでしょうか?
篠原:出版された当初はスタイルが斬新だったということもあって流行思想として受容されたらしく、また90年代にはライプニッツ論が流行って当時のグニャグニャ建築を説明するツールとして使われたらしいですが、最近は別に流行だとか何だとかいうより、未整理な状態で出された思考の集積から使えるものを拾いあげ、どんどんバージョンアップさせるという段階にあるのではないでしょうか。音楽を例とするなら、サンプリングの対象です。ケンドリック・ラマーがトゥパックやアイズリーブラザーズを聴いて自らの音楽に取り入れてしまうのと同じように、ドゥルーズも、現代的な状況の中での新バージョンとして再生されている。ただ、バージョンアップするのであれば、面白くないとダメだとは思います。それは無思考なままの註釈とは違うし、アイデアの借用とも違うし、個人崇拝とも違う。自分なりの思考、実践がないと、優れたサンプリングはできません。ところでアレグザンダー・ギャロウェイはコントロール社会の議論と『シネマ』における空間論が重要と言っていますが(たしかに『シネマ』の小津安二郎論は面白いですが、ちょっと違うんじゃない?と思うこともあります。機会があれば論じてみたいですね)、私自身は、『ミルプラトー』が一番面白いと考えています。デランダがかなりそれを解釈し直して、アッサンブラージュの理論として読み替えていった。これもドゥルーズ=ガタリ・リミックスですね。ミクロなものからマクロなものへの相互連関の理論として読み替えた。このように、ドゥルーズをどうリミックスするかが重要になってきている。
モートンたちに継承されているのは、ガタリが開いた「エコソフィー」、つまり人間は周りの世界との関係の中で生きているというところがベースにあると思います。ガタリは、今いる世界の中で生きやすい環境をつくりましょうよという、結構普通のことをたぶん考えていると思います。人間の内面性を作り変えるというのではなく、私たちが身をおき呼吸し動き回っているこの環境世界を、ストレスフルでなく、生きやすいものにしていく。前もオランダで哲学やっている人と話していたら「ガタリは仏教に関心をもっていた」と言っていました。「ガタリが独自なのは、西洋思想とは異なる思想に本気で関心を持っていたからだ」と。無為自然というか、そんな思想なのかもしれませんね。無理はせず、でもやるべきことはやる。
能作:『生きられたニュータウン』の中で、ガタリの「カオスモーズ」の話が出てきます。そこに建築家として非常に共感しました。私は、建築は芸術のひとつのジャンルだと考えています。というのは、建築家による建築は、都市においては圧倒的にマイノリティだからです。建築家という存在もマイノリティです。現実に都市をつくっているのは建築家ではない。建築家はひとつひとつの粒をやっているにすぎなくて、マイノリティということから始めなければならない。芸術の役割というのは、日々の現実に埋没している物事の瑞々しさを掬い採ること、ヴィヴィッドに照らし出すことだと思います。しかし、そうした認識が行き過ぎると、現実の物事を異化させることが目的化していくのです。芸術=異化作用という短絡です。そこでなんとなく私は行き詰まりを感じていました。そのときに、芸術は「主体性の生産」だというガタリの言葉にとても共感したのです。
リノベーションの仕事をやっていると、住んでいる人も作り手も、制作しているなかで主体性が生産されていくことがあります。建築をつくること自体が今まで潜在的にもっていた技能や思考にはたらきかけていきます。また建築に関係づけられているネットワークにも気づいていきます。さきほどのリズムの話とも関連すると思いますが、建築家は住む人のリズム、街のリズムなどを汲み取ってきます。そしてそのリズムを調整しながらできた建築が、人や街とのリズムに再帰的に働きかけていくことで、リズムを変えていきます。そのことはまさに「主体性の生産」だと思います。建築家の仕事には「主体性の生産」的な部分が大きいはずなのに、それをこれまでうまく言葉にできていなかったと思います。
篠原:リズム、質感、環境という、表現にかかわる水準に働きかけることの大切さを述べたことが、ドゥルーズ・ガタリの画期的なところではないでしょうか。これを30年前に述べていたというのは、すごいことです。システムでもなければ心的なものでもない、表現の水準。ここで実践することが芸術であると彼らは言ったのでしょうが、そこに建築が連動し、建築行為がおこなわれているようになっているというのであれば、それはそれで面白いですね。
「縁」:主体性を生産する建築家たち
能作:今回の日本館の展示は、世界的には無名の若手ばかりだと思いますが、「主体性の生産」を起こす建築と捉えれば、光って見えてくると思います。これらの実践は、日本の文化的なものとも連続しているし、現代の問題との交差点にもあります。
篠原:あくまでも私見ですが、日本でアーレントなどに依拠して建築を語る人は、やはり理念主義的すぎると思います。公共性の理念を実現すれば、あらゆるものが解決すると考えているのでしょうね。これに対して能作さんたちがやろうとしているのは、人が関わりながら生きていることのできる場のあり方への、感覚的な理解から空間を実現化していくことなのでしょう。外部から理念を導入するのではなく、空間をつくるエージェントのひとりとして対話へと加わり、住んでいる人などとのやりとりのなかで共存の空間ができていく、ということです。
能作:私たちのやっていることは一方で批判もされます。単なる現状肯定ではないかとか、「空間がない」のではないかと言われたりもします。つまりそれは、主体性の生産というものを、芸術としては認めないということだと思います。それはかなり狭い意味での芸術感になってしまっているのではないか。
篠原:オランダでレクチャーをした際に、現地の研究者と話してきました。彼も建築をやりつつアーレントに関心を持っていて、アーレントを読む中で自分の建築観も変えていきたいと言っていました。彼が言っていたのは、建築家の役回りの定義を変えたいということです。従来的な意味での建築家ではない役回りへと建築家の領分が拡張されていくことを理論化する上でアーレントが役に立つと言っていました。オランダでそういう動きがあるのだから、日本で起きていても不思議ではない。同時代的な現象として受け入れるべきです。近代建築の本家本元のヨーロッパでそういう議論があるわけですから。日本でも自分たちなりに役回りの再定義についてポジティブに議論していくほうが良いと思います。
能作:建築家の役回りも変わっているように思います。建築はいろいろな「もの」のネットワークのなかにありますが、建築家もそのネットワークの一部にすぎません。しかし建築家だからできることももちろんあります。建築家はいろんな物事を統合する立場なのですが、私は建築に関わるネットワークを開いていく役割もあると思っています。なので、建築をかたちやイメージとして捉えていくだけではなく、ネットワークのなかで捉えていく認識がもっと必要だと感じています。このような認識はブルーノ・ラトゥールのアクターネットワーク論から示唆を得ました。「もの」も「人」も互いに関係し合いながら絡み合いネットワークを形成することから現実が出来上がっています。このようなネットワークには、不確実性や偶然性な物事で溢れていますが、それを包摂しながらよいリズムへと導いていくことが大切だと思います。ネットワークによる認識では、物事を内/外とか、部分/全体とか、二項対立で捉えたり、それらの相互関係と捉える必要がありません。それは、固定的なパースペクティブがなく、中心もありません。関係性の網目のなかのどこからでも実践のきっかけをみつけていくことができる、それがネットワーク的な認識の可能性だと思います。それが「人」と「もの」を含めた生態学的な価値を建築にもたらしてくれるように予感しています。
篠原:主体性の生産というとき、能作さんが着目するラトゥールの議論がまずはベースになるのでしょう。「もの」の連関のなかに、建築家の行為も組み込まれていく。ただし、それだけだと、ものと建築家の身体がフラットに連関するというだけの話になり、建築ならではの面白さ、輝きが、疎かになってしまう。ドゥルーズやガタリがいう質感やリズムの議論は、同時代の日本では坂部恵が「ふるまい」の哲学を提唱するなかで試みていることでもあるのですが、それをどう継承し展開するかが、人文学の課題ではあります。つまるところ、「空間は、いかなる条件で、生きていることの根拠、現場になるのか」。この問いについて考えたいです。建築で主体性の生産というときも、ふるまい、リズム、質感ということを意識化するというだけでなく、それを作品化しなくてはならないでしょうが、それは結構な難題ですね。ただ、難題だからこそ挑むことで遂げられることもものすごいものとなるでしょうから、ぜひともがんばってください。よく考えてみると、私が坂部のふるまい論に着目するようになったのは、アトリエ・ワンの塚本さんと対話したことがきっかけです。ヴェネチア・ビエンナーレ以来の能作さんたちとの対話からも、またいろいろと示唆を得ています。こうやって、生産的な対話を続けていきたいですが、これも縁ですね。本日はありがとうございました。
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