第15回けんちくとーろん(AF=Forumアーキテクト/ビルダー研究会Architect/Builder Study Group共催)建築の設計と生産:その歴史と現在の課題をめぐって07
住宅ストックと街の再生-住宅リノベーションの作法
Housing stock and revitalization of the city - How to make house renovation.Architectural Design and Build: Its History and the Present Issues 07.

コーディネーター:安藤正雄、布野修司、斎藤公男
パネリスト:魚谷繁礼、永山祐子

参加者:神田順、香月真大、長谷部勉、広田直行、宇野求、佐藤敏宏、古瀬敏、深尾精一、山岸輝樹、他
記録:長谷部勉、曽根大嗣

日時:平成29年10月5日(水)17時30分~
会場:A-Forum(東京都千代田区神田駿河台1−5−5レモンパートⅡビル5階)

主旨
本シリーズは、建築を大きくは町場と野丁場、住宅と公共建築に分けて、その設計―生産の今日的問題を議論してきた。今回は、町場、住宅の設計、生産について考える。これまで、第3回「日本の住宅生産と建築家 建築の設計と生産:その歴史と現在の課題をめぐって」で、まず、住宅生産システムにおける建築家の役割を大きく振り返った。住宅設計に取り組む建築家の相対的地位は低下し続けてきたけれど、住宅設計・生産の現場で建築家という職能が一貫して期待されていることを再確認した。一方、第4回「建築職人の現在―木造住宅の設計は誰の責任なのか?」では、住宅建設に関わる職人の高齢化、減少の問題とともに、プレカットが9割となる在来木造住宅のシステム崩壊が議論になった。そして、第5回「建築家の終焉!?―「箱」の産業から「場」の産業へ」では、第3回で再確認された建築家のあり方について、そもそも、「箱」としての建築をつくってきた建築家の概念そのものが無効ではないか、場所をつくっていく、まちづくりに建築を拓いていく新しい職能が必要ではないか、という提起があった。
今回は、具体的な住宅リノベーションの現場の問題に焦点を当てたい。日本は、現在、800万戸の空家を抱え、新たな住宅建設が大量に必要とされる状況にはない。住宅リノベーションの需要がこの間増加し続けてきたのは当然である。加えて、これまでにない観光客の増加による宿泊施設需要のために、既存ストックのホテル転用が急激に行われつつある。こうした中で、古都京都を拠点に京町家のリノベーションに取り組む魚谷繁礼(『住宅リノベーション図集』)、東京を拠点にし、古民家再生やまちづくりに取り組む永山祐子の2人の一線の建築家を招いて、住宅リノベーションに取り組む意義、その手法などをめぐって議論したい。

布野修司

布野:それでは始めたいと思います。A-Forumについて簡単に斎藤先生にご紹介してもらいます。私が関西にいる時からすごく良いスペースだとお伺いしていて、無理をお願いしてこうしたフォーラムを開いてきて第7回目になります。建築学会の建築討論委員会との共催ということでやってきました。ここにいらっしゃる安藤先生と企画をたててきまして、私は住宅系、町場の問題を取り扱って、安藤先生は、新国立競技場問題、オリンピック施設問題などを扱いながら、様々な契約発注方式の問題を扱ってきています。前回は、プレカットの問題を取り上げましたが、今回はリノベーションに焦点を当てます。永山さんは女流建築家として最前線にいるわけですが、経緯を言いますと、安藤先生が魚谷くんを呼べっというのが最初です。京都はインバウンドのホテル事業がすごいことになっていまして、魚谷さんに多くの仕事が来ている、その状況と、どういう狙いをもって取り組んでいるのかを聞きたい。魚谷さんは、京大布野研だったので頼みやすい。東京で魚谷さんに対応する建築家は誰かと香月さんや長谷部さんに聞いたら、永山さんがいいということで、決めた次第です。責任として、香月さんと、東洋大学時代布野研だった長谷部さんにコメンテーターをお願いしています。

斎藤:先ほどご紹介いただきましたが、ここは、A-Forumと呼んでいますが、結構不思議な空間なので、私も全て把握していませんが、おかげでこの12月で4年になります。様々なテーマを持ってきて、講演会ではなく飲み会を重要視しています。後の飲み会を楽しみにしてください。

布野:どうしてこのようなすてきな空間が維持されているのか僕もよく分かりませんが、すごく貴重ですし、コアな先生は色々ノルマがあるようですけれど、まずは気楽に議論し、議論したことが何となく社会に繋がっていくといいなと。では魚谷さんから最初のプレゼンテーションお願いします。

京町家と都市再生:魚谷繁礼(魚谷繁礼建築研究所)

魚谷繁礼

魚谷:魚谷と言います。よろしくお願いします。僕は、布野先生の下で京都の都市構造について研究しまして、2003年に大学院を修了しました。その後引き続き京都に居座り、今設計事務所をやっています。もともと町屋改修を行うことに興味が無くて、どちらかと言うと、今の京都にふさわしい新しい町屋、新しい都市型住居みたいなものを作りたくて仕事をしていたんですけど、その中で、どんどん町屋が失われていくのを目にして、町屋の保存もやっていかなくてはと思いました。当時、町屋の保存は、すごくお金をかけて、時間をかけて復元することが多かったんですが、早く安くたくさん、事業者と組んで、町屋を残そうということを考えて仕事をしていきました。これまで30~40軒くらいの町屋を改修してきたんですが、そのうちのいくつかを紹介したいと思います。

(図-1)

まず、郊外の伝統的な軸組構法の建物です。これは改修前の図面(図-1)です。特徴的な座敷があって、これは残したい。痛んでいることが多い水回りは更新する必要がある。残すところと残さないところメリハリを付けて改修します。(図-2)

(図-2)

これは改修後の写真です(図3)。

(図-3)

(図-4)

天井を取っ払って、天井を高くしています。(図-4)

(図-5)

これは、元々町屋なんですけど、町屋のファサードに看板建築となっていました。内部の改修が繰り返されていましたので、軸組、外見などは残して、それ以外は大々的に改修しています。これが改修後の写真です。(図-5)
こう言う仕事をする前は、RC造に比べて木造建築はあまりリノベーションに向かないと思っていたんですが、実際にやってみるとすごくやりやすい。伝統的軸組構法の建築は、柱梁で基本的な構造は持っている。ということは、壁と床は比較的自由に位置を取り替えられるのでプランが変えやすいんです。柱に関しても柱の位置を変えることも出来るし、柱を取り除いて梁を大きくして対応することも出来る。柱が腐っていたら根継ぎなどをして健全化することも出来る。そう言うことを考えるとRC造よりも改修しやすいんです。それから既存不適格の既得権があります。町屋のほとんどが戦前に建てられているので、建築基準法の施行(1950年)以前なので、そのまま既存不適格の建築になります。そうすると今の現行基準を守らなくても合法的に改修できるんです。新築だったら、町中で木造建具などなかなか使えないんですが、改修だったら使える。新築では設計できないんですが、町屋の改修ならばできる、というメリットがあるんです。もちろん、設計士が施主との関係の中で、責任を持って、構造、防火などの安全性は考える必要はあります。

(図-6)

次は今年(2017年)竣工した住宅です。これは改修前です。(図-6)先ほどご覧いただいた建物はあまり予算が無くて、大壁の建築ですが、後々のことを考えると真壁の方が改修しやすいので、ここでは真壁で改修しています。この住宅で特徴的なのは防空壕です。これを活かしてあげようと考えました。
布野:どのくらい防空壕はあるの。
魚谷:3軒に1軒の割合で防空壕はありました。少しじめじめとした床になっていたので、この床を上に上げてスキップフロアのように改修しました。(図-7)

(図-7)

防空壕の上に高くなった床を上げています。これが改修後の図面です(図8、9)。

(図-8)

(図-9)

このような改修が出来るのも、伝統的な軸組構法だからだと考えています。真壁による改修は、50年後などに改修する際にも、柱梁の位置が分かりやすく改修しやすいのではと思っています。
次にシェアハウスです。なぜシェアハウスかというと、町屋は、そもそもは職住共存で、大家族で暮らしているので、大きいんです。先ほどご覧いただいた町屋は比較的小さい町屋ですが、本来町屋は大きい。その町屋を一家族の住宅に改修するには少し大きすぎる。店舗に改修することが多いんですが、かなり大々的に改修してしまうので、店舗がつぶれた後に違う用途に使おうとすると少し扱いにくい。町屋改修の選択肢として居住用に使う選択肢を作れないかと考えました。2011年のころはそれほどシェアハウスが無くて、もちろん建築基準法にもシェアハウスは無いので、京都市役所と消防署に行って、「集合住宅でも寄宿舎でもなくこれは住宅なんだ。血縁関係はない。ただし、家族の住む住宅なんだ。」ということを理解してもらって、大きな町屋でも用途変更なしで、住宅として見てもらうことになって改修ができるんです。(図-10)

(図-10)

シェアハウスの後に、人がたくさん居住する小さい住宅が火事になった事件があって、国の方がシェアハウスを寄宿舎とすることになります。それで、このシェアハウスは、用途変更しているんですが、100㎡を超える寄宿舎です。もとは町屋というかお茶屋さんです。島原と言って、元々遊郭がたくさんあった地域なんですが、小さい部屋がたくさんあるんです。つまり、男女が寝て丁度いい大きさ、3畳1間ですね。それくらいの大きさがたくさんある。それで、この部屋を残したい。この部屋を残すためには、小さい個室と豊かな共有部ってことでシェアハウスにすれば残せるのではないかと、考えたんです。

(図-11)

(図-12)

改修後の図面(図-11,12)なんですけど、2階の小さな部屋を残しています。

(図-13)

改修後の写真です。(図-13)これはもともと3畳1間だったところですね。京都の島原なのであまり、少しメインから外れたところなんですけど、不動産的に言うと3畳1間、風呂、トイレ、共同、収納なしで、家賃が6万5千なので、非常に高いですけど、満室が続いています。

(図-14)

これもシェアハウスです。これは、さっきは100㎡超えているシェアハウス、これは200㎡超えているので、これも計画中に、寄宿舎の扱いになったので、非常に苦労した覚えがあります。
次にこれは、路地を挟んで、二軒長屋のうちの一軒と、四軒長屋のうちの三軒、計四軒を10人で住む長屋に改修しています。一般的なシェアハウスは、玄関があって、大きいリビングがあって、個室があると思うんですけど、玄関がたくさんある感じを残したいと思って、改修にあたっては、玄関があってまず個室がある、その奥にリビングがある。そのようなプランニングにしています。
玄関が4つあるんですけど、更に玄関を増やして、階段を上って行って、2階にも玄関を作って、玄関を開けるとまず個室がある。その奥に共有のリビングスペースがある。(図-14)そうすることによって、もしこっちに個室があると、共用スペースは、仕事で帰ってきた人がスーツで通るわけで、あるいは、仕事に行く時にスーツで通るわけなので、比較的綺麗にして共用部に出て行く。個室にして、その奥に共用スペースにすることによって、より乱れたと言うか、家族の様な形で過ごせるのではないかと。

(図-15)

改修後の写真です。(図-15)向こうの方が路地の入り口があって、個室があって、共用のキッチン、ダイニング、リビングがあって庭があります。内装制限などが関係してくるので、200㎡の用途変更の影響が出ています。

(図-16)

次に、この住宅は改修前の写真(図-16)なんですが、路地の奥に長屋が三軒あって、その三軒をくっつけて一つの住宅に改修しています。路地の一部を壁で囲ってしまって、中庭にしています。(図-17)これが改修後の写真です。(図-18)路地を入っていって、元々ここも路地だったんですが中庭にしています。本当は、ここの柱を境に二軒別々の家があって、反対側に一軒で、計3軒の別々の住宅でした。空間構成的には、街区の外から路地を通って街区野中に入って、路地を通って住宅の中をぐるっと旋回するように、屋上に出ると、東の山が見える。まあ、外から内に入って、内から外に出るような、空間を意識しました。

(図-17)

(図-18)

(図-19)

少し話が逸れますが、京都はグリット都市として計画をされまして、街区も4×8で敷地割りされてたんですけど、格家を道に対して建てていく、それが町屋の起源ではないか。そうすると、元々120m×120mとグリット都市としては比較的大きい 街区寸法ですので真ん中に空地が出来る。(図-19)

(図-20)

正確に言うと、豊臣秀吉が60m×120mに割るんですけど、それでもまだ大きい。それで余ったスペースに長屋というか貸家を造って、そこに道を引いたのが、京都の路地の起源ではないかと。路地と言っても色々あると思うんですが、京都の路地は、街区の中央にアプローチするための道です。今でもこれだけの路地が残っています。(図-20)その路地なんですけど、こう言う敷地の奥に敷地があって、長屋が建っているわけなんですけれども、通りから離れているので消防車、救急車が入れない。(図-21)日本全国ほとんど同じでしょうが、基本的には再建築不可能です。

(図-21)

そうするととても安い。隣の町屋がマンションに建て変わる時に、こっちの安い土地も一緒に買われ、大きな敷地になり、マンションが建つ。そのようなことが京都ではあっちこっちで起こりました。例えば、路地の奥に長屋が空き家であって、横に駐車場を挟むと再建築できない。これがマンションに変わる時に、一緒に空き家も買われて、敷地が大きくなり、マンションが建つ。その結果建ったのがこんな感じです。(図-22)伝統的な京都の路地は、街区の中央に庭が連単していて、表と裏を作って生活をしているわけなんですけれど、街区の中心にマンションが建ってしまうと、伝統的な街区の構造が潰れてしまう。今日、京都の街区にはこれだけのマンションが建っています。(図-23)下を歩いていると、町屋が目に付くんですけれど、ちょっと上に行くとこんな状況です。

(図-22)

(図-23)

これが京都の旧市街のマンションをプロットしたものです。(図-24)

(図-24)

そういった中で、路地奥で老朽化した木造建築を改修するということは、長屋そのものというより、路地を含んだ地割りを残すことに意味があるのではないかということです。それからマンション建設の抑制にも繋がるのではないかと考えています。それから、すごく安いわけです。古今東西都市のスラムが出来てきたかもしれないのですが、京都は、町の街区の中央に安く住めるポテンシャルがある。中心市街地活性化という言葉もありますけれど、京都ではそれがすごくしやすいのではないかと。さっきの実際の住宅ですが、土地が600万で、改修費が2000万ぐらいなんで、合計2600万。事業物件なので、3000万くらいで売っているんですけれども、町のど真ん中に3000万であれだけのところに住める。そういう意味で、町のど真ん中に、安く居住するモデルなのではないかと考えています。そういうことが、路地奥で老朽化した伝統的建築物の改修に意味があることが上げられると考えています。

(図-25)

次に、これも同じく路地の奥で、三軒の長屋を一軒にしています。これが改修前です。(図-25)壁や天井の水平垂直が無くなってしまっている、ビニールシート葺きの状態です。実は、僕の家なんですけど、これは2000万弱です。表の通りに面していると坪100万ですけど、路地の奥に行くと、坪50万きるくらいです。これが改修後の写真です。(図-26)

(図-26)

さっきの住宅もそうなんですが、三軒を一軒にしているので、空き家対策としても効果があるんではないかと。どういうことかと言うと、京都でも空き家対策と言われているんですけれど、空き家が一軒あり、その空き家を改修して誰かがそこに住みます。誰かはどっかから引っ越してきているので、引っ越す前の家が空き家になってしまっている。それでは空き家の数は変わっていないのではないかと。今の住宅は、三軒が一軒になっているので、空き家が3つ減っていると。僕が引っ越してくると空き家が1つ増える。数的には2つ減っているので、空き家対策として効果があるのではないかと考えています。(図-26)町屋は英語で言うと、タウンハウスなんですけれど、厳密に言うと町屋とはショップハウスなんです。つまり、通りに面した店舗併用住宅です。町屋をやめたのが、仕舞屋、路地奥の長屋といいます。京都は戦争であまり空襲が無かったので、数的にはたくさん町屋が残っているんですけれども、町並みとしてはあまり残っていない。つまり、町屋の横にこういうマンションを建てたりもする。京都よりも倉敷、高山の方が町並みが残っているのではないかと。では京都の町並みはどこに残っているかというと、こういう路地の奥に残っているのではないかと。こういった奥は、再建築不可能なので、こういった町並みが残っている。

(図-26)

(図-27)

郡として残っている、路地奥の町並みを残すことも重要であると考えていまして、これは四軒の長屋分をまとめて改修しています。(図-27)路地奥は建物が小さく安い。なので、シングルマザー、シングルファザーを対象とした住宅にして、四軒貸家にしています。それで、みんなで共同して育てようみたいなことを考えていました。これが改修後の写真です。(図-28)

(図-28)

一般的に縁側は、路地があって家があって、反対側にあるんですが、それを表の方に持ってきて、ここも子育てのスペースにしようと。それで今、京都はインバウンドですごく宿泊施設が増えてきているんですけれども、これは路地の内の4軒長屋を宿泊施設にしたんですけれども、あまり僕は路地奥の建物を宿泊施設にすることは肯定的ではなくて、生活している中で、毎日違う外国人が出入りすることは、あまりよくない。けれど、ここでは空き地があって、路地に住んでいる人も、元々住んでいる人も一緒に使えるスペースに出来ないかと。そのような話をしたら、住んでいた人も喜んでくれたので、ここでは4軒の長屋を、一棟貸しの宿泊施設に改修しています。否定をすることも重要なのですが、空き家をしっかりと直して、インバウンドが落ち着いたら、住宅として使えるようなこと考えています。これが改修前の写真です。(図-29)

(図-29)

四軒長屋を、四軒の一棟貸しの宿泊施設に改修しています。元々あった空き地は、元々住んでいた人も共同で使える様なスペースにしています。それで、将来的には、また住宅として使える様に改修しています。改修後の写真です。(図-30)

(図-30)

これが共有スペースです。(図-30)四軒すべて別々のプランで改修しています。これは先ほどのものと似ているのですが、路地の奥に十軒ありまして、その十軒を一棟貸しの宿十軒にして、路地全体で一つのホテルになるように提案して実現しました。(図-31)これが改修前の写真です。(図-32)

(図-31)

(図-32)

改修後の図面なんですけれども(図-33)、十軒中一軒を共有スペースにして、宿泊者が使えると同時に、近隣の苦情を聞く窓口になるように考えています。これも、将来的に住宅として使えるようにプランニングしています。

(図-33)

(図-33)

改修後の写真です。(図-34、-35)

(図-34)

(図-35)

この物件は実はファンドなんです。あまり利回りの良い土地ではないんですけれど、京都のために投資をしてもらって、三年間は運営してから開拓予定だったんですけれど、工事中に買いたいという話しがあって、工事中に売れてしまって、見回りが良い投資物件になりました。今はよく分かんないことになってしまっているんで、今ではそれの反省で、最低でも3〜5年は持ってくれないと。買ったところの営業所の様な形で使われてしまっている。
シェアハウスやシングルマザー、シングルファザーの家だったり、ホテルだったり。場所によって、住宅地だったらシェアハウスとか。これからやってみたいのは、商業地だったら、路地を入っていって、四軒長屋があったら、ブランドものとか。そういう形で、商業エリア、観光エリア、居住地によって用途を考えていければ良いと思っています。
次は元々日本酒の麹を作っている所なんですけれども、そこを改修しています。(図-36、-37)これはある企業の研修施設だったり、企業が使っていない時にはコンサートをしたりとか、セミナー、ギャラリーなどのイベントスペースとして使われています。

(図-36)

(図-37)

今の仕事は元々町屋を買った人から仕事が来たのではなくて、こういうことがしたいんだけどいいかということから仕事をしたので、こういう事がしたいならここが良いんではないか、この町屋が良いんではないかと紹介をして、実現しています。つまり、どこかのエリアで町屋改修の依頼が来て、それをどのような用途に使うかを土地の特性を考えて、提案する地域計画の関わり方が多いと思うんですけれど、そうじゃなくて、そういう用途にしたいのであれば、この場所はどうかと場所を提案する事によって、京都のエリアを計画していくという様な地域計画を考えています。
最初に早く安くたくさんと言ったんですけれど、やっぱりそもそも、町屋は高いので、これはお金をかけて改修する事も必要ではないのかと。これはお金をかけて改修したものです。住宅は、建築以外にもいろいろな産業が関わっているので、建築以外にも、漆、和紙、造園などの職人も巻き込んで改修をしています。二億くらいかけています。(図-38、-39)

(図-38)

(図-39)

(図-40)

(図-40)

これは、海外から投資をする人と打ち合わせをするスペースなんですけれども、ドローンなどの最先端技術に投資をしているんですけれど、設計段階でいろいろな伝統産業の工房(図-40)を見てもらって、最先端技術だけではなくて、伝統的技術にも投資をしてもらうようにした物件です。(図-41)

(図-41)

これは、京都はお茶に関する伝統産業は比較的残っているんですが、新しいお茶などを作って、今沈んでいる伝統産業をどうにかならないかと考えていた時に、お施主さんが湯道を行いたいと言っていたので、それを計画しました。(図-42)湯船は、東京タワーの屋上で、何日か限定で使っていたお風呂を持ってきています。(図-43、-44)

(図-42)

(図-43)

(図-44)

京都は町屋だけではなくて、お寺も問題があります。これはあるお寺の本堂なのですが、雨漏りがあります。瓦の架け替えに60億かかる。土地を切り売りして対応してきたんですけど、もう土地もない。こうしたお寺をどう改修するかという事例です。具体的には、売る土地が無いので、複合施設や高齢化施設などに土地を貸してお金を作る計画です。神業の方では、ある有名なお寺が全部の土地を持っている。それを借地権の形で貸している。赤いところは空き家なんですけれど、それをどうするかを考えなくてはならないと思っています。町屋の改修というのは、建物を残すだけではなくて、それぞれの事情を考えて、京都に住む続けるモデルを作れるような仕事をすることを考えています。

(図-45)

最後に既存不適格建築についてです。離れの建物を増築して、家を造りたいとの依頼がありました。(図-45)確認申請の図面を見ると、構造壁は適切な位置に入れるとしか書いてないんです。そこで、壁は一切無いと前提の下にこういう形で増築をして、建物全体として壁量を満たすようにしています。(図-46)何でこういうかたちが必要かというと、1/4の割合で壁が必要だからです。それとは別に、許容応力度を構造家に計算してもらって、法と、実際の耐力の確保についての対応をしたわけです。既存不適格の建物を、増築によって現行基準にも適応した建物に変えるわけです。(図-46)

(図-46)

(図-47)

それからもうひとつ、路地の奥に長屋と空き地があって、それを残しつつ建築を造れないかというこ設計をしています。鉄骨造で、500㎡以下で二階建てなので、その他の構造にします。長屋に関しては、床を抜いて吹き抜けにします。壁は内装、屋根は天井として扱っています。(図-48)

(図-48)

(図-49)

これは、長屋を壊してコンテナを積んでくれという依頼があったので、長屋を残して、コンテナも内装扱いにして計画しているものです。建築基準法上は新築です。(図-49)
これは大阪の方で残したいと(図-50)既存不適格ではなくて、戦後のどさくさまぎれの時代に、確認申請を出さずに建築した建物なんです。これをどうにか合法化してほしいという依頼で、外壁を残して、中に新しい柱を作りまして、基礎も打ち直して、新築というかたちにしたんです。(図-51)既存の柱は、構造柱にしていないんです。そうすることによって、確認申請を出していないけど建ててしまった建物の雰囲気を残しながら、実際は改修なんだけれど、建築基準法上は新築とする、こんな事例もあります。

(図-50)

(図-51)

既存不適格建築をどう活用して残していくかについては、建築基準法上ではうまくやりようがあるんですが、バリアフリー法がすごく厄介で、よく引っかかり、活用できない事がよくあります。(図-52)

(図-52)

布野:半期分の講義の触りをいただいたみたいなかたちですけど、一戸一戸のリノベーションについても法律的にいろいろな問題がある。僕が京都大学に赴任したのは1991年ですけれど、その時には、京町家をどう保存していくか、そのために職人さんをどう確保していくかということが大きなテーマになっていました。僕が行った直後に京町家再生研究会が組織され、続いて京都作事組が設立されました。今も活動を続けています。当時は、京町家という形式をどう保存するかがテーマでした。しかし、それ以前に木造建築が建たない。そこで、建設省などに防火規定の適用除外などを掛け合ったりしましたが、一国二制度はダメですということでしたね。結局、建築基準法のその他条例に定めるところによる、という条項を使うしかない。そうすると、どうしても文化財として京町家に限定されてしまう。しかし、現在、魚谷さんたちがやっているのは、とにかく在来の木造建築物を残すということですね。すごい事だと思います。今やれば、30年ぐらいは木造在来工法を延命させることができる。東京は、木造住宅はほぼシステム崩壊している感じがしています。前回に、プレカットの実態を聞いて危機感を持っています。一方、リノベーションの仕事は多いんですね。空家だらけですから。東京のリノベの女王は永山さんだということです。永山さんお願いします。

住宅リノベーションの手法:永山祐子(永山祐子建築設計事務所)

永山祐子

永山:私は独立してから、このカヤバ珈琲をやるまでは、全くリノベーションをやったことがなくて、谷中にある古い珈琲屋さんの改修で初めて行いました。(図-53)これは、谷中の日暮里の駅と藝大を結ぶ道の交差点にある。最初はおばあさんが切り盛りしていて、亡くなった後にマンションになるとなった時に、台東区歴史研究会というものが台東区にありまして、なるべく古い建物を実際に使って保存していこうという活動をしていて、その方と、この近くにお風呂屋さんを改修したSCAI THE BATHHHOUSEという現代ギャラリーがあって、そこのオーナーがぜひ残したいということになりました。私が訪れた時はこのような感じで(図-54)、これを改修して、同じように喫茶店を行いたいという話しでした。

(図-53)

(図-54)

打ち合わせにいった時には、歴史あるカヤバ珈琲の思い出話を聞いて、一回歴史的なストーリーを聞きながらも、場所の持っている魅力や空間性を抽出したいと思って、写真を撮っておいたんですけれど、ここが交差点になって、開口がL字になっていて、すごく外が明るい状況。カヤバ珈琲はすごく昔から愛されている珈琲屋さんなんですけれど、昔の喫茶店は外が明るくて中が暗い、今のカフェは中が真っ白で明るい感じのカフェで、喫茶店とカフェは全く質が違うと。それは光のコントラストだと思ったんですけれど、喫茶店は一人で来ても何時間もいられる場所だと思うんですが、大体窓辺におじいさんが座りながら一日明るい外を眺めていられる空間がここの持っている特性であり、カヤバらしさだと思って、光のコントラストをもう少し現代的に読み替えて、改修していこうと考えました。これが改修後なんですけれども、光のコントラストが常にあって、すごく天井が低かったので、天井の板材を剥がして、黒いガラスを埋め込んでいきました。(図-55)

(図-55)

やった事はこれだけなんですけれど、こうする事で、元々あった光のコントラストの増幅をして新しい読み替えをする。ユーログレーという黒いスモークガラスがあるんですが、フィルムを重ねて丁度いい色を研究していったんですが、やりたかった事は、昼間は鏡的に反射をしていて、天井に照明が入っていて、照明が入っている時に、大正時代の天井の構造が見えてくるようになっていて、時間ごとに見え方が変わってくる。黒いガラスの反射の特性としては、光が明るいとカラーに写るんですが、暗くなるとモノクロになって、素材の持っている反射の感じが時間と共に変化するのが、鏡と違って繊細なので。奥の突き当たりが明るくなっているんですけれども、交差点で、この壁がどうしても全体の界隈のアイストップになっていて、前はこういう状態だったので、窓の様な抜ける様な感覚で造りたいと思って、窓と同じ明るさに出来るように細かく調光をつけて、お店の人にその日に合わせて窓の様に調光してくださいみたいな、変えたところと言ったらそこだけなんですが、そういう読み替えをしています。一カ所だけ上に穴を開けて、上に置かれた卓袱台の裏が見えているとか(図-56)、移り込む景色と重なり合ったり、こういう事を初めてやって、割と位置から建てる事が多かったんですが、私がリノベーションする時は、場の持っている特性とその空間だからこそ生まれて来た歴史的な積み重ねやストーリーを今の時代に置き換えていく意識でやっています。その時によく使う要素として、素材感や光を使ってやっている事が多いかと思います。

(図-56)

次が木屋旅館で、愛媛県の宇和島ですが、宇和島が島が付くので島だと思われているのですが、松山から車で二時間くらいのところにあるのですが、そこが高速道路が丁度開通するというタイミングで、宇和島市が観光の目玉になる様な面白い場所を作りたいという話がありまして、だいぶ前に閉まっていた木屋旅館という旅館を再生させて、指定業者を募って事業を行う、官と民共同のプロジェクトです。(図-57)

(図-57)

ここは昔から宿屋さんで、宇和島が真珠や色々産業で有名だった時に、商人などが来て泊まったりする様な明治時代からある宿。(図-58)

(図-58)

これを元々の姿に改修した後に指定業者を募る話だったのですが、これを何にするかというところで、やはり宿泊施設にしようと。その時に問題になったのは、昔の宿屋さんだとセキュリティが甘いので、襖一枚で他人と寝泊まりするのは今の時代だと出来ないので、一日一棟貸しの建物にして、鍵を渡して管理を楽にして、プライベートとセキュリティの問題を回避する。体験型の建物にするという話になりまして、企画、中の運営はディベロッパーが主体になって、あまりにも床が多かったので、出来上がった世界観の中で何か足すというよりは、引き算をしながら新しい価値をプラスしていく様な事を考えました。それで考えたのが、床が低すぎるので、床を引いていく。床を抜いてアクリルに変えていく方法なんですけれども、日本の建築は水平の目線に対して造られていて、目線が垂直に抜ける体験があまり無いので、新しい断面的な建築の見え方を提案して、更に、暗かった下に光を落とす場所になった。今まで剥がさないと見えてこなかった7~8mのダイナミックな縦型の空間も見つかり、吹き抜けにするというより、畳を透明なアクリルに取り替えていくやり方で造っています。

(図-59)

夜はここが反射面になって、水を張った様な現象になっています。(図-59)この上で寝る人も多くて、空中に浮いた様な体験をするんですが、シェイドを付けて、これ自体も色が変えられる様になっていて、非日常を体験出来ます。グループで泊まると、朝下にいる人と目が合ったりとか、思わぬ目線が合う事が面白いです。(図-60)
布野:イスタンブールでたまたま泊まったホテルが、下から上の卓球をしている人が見えるようになっていてびっくりしたよ。
永山:似た様な体験ですね。結構不思議な体験なんですが、体験型ということで、普通ではしないと思うんですが。これがお風呂で、既存の一部を残して、それ以外を真っ黒にする感じで、引き算の仕方で字と図は変わります。(図-61)

(図-60)

(図-61)

先ほどの幕を染める方法ですが、外装にも変化を持たせるためにしている事でもあって、この前の通りが、有名な牛鬼祭りやいろいろなイベントに使われる通りで、昔のままの姿というよりは、ここ自体に変化がある。光の演出みたいなものをする事で、お祭りと呼応するような。面白がって泊まっている人が色を変えるので、泊まりに来ていると分かる一つの現象みたいなものになってます。

(図-62)

これが直島の横にある豊島横尾美術館なんですが(図-62)、元々豊島の玄関口である家浦港にフェリーが着きまして、一番玄関口にある集落のメイン通りの一番横にあるすごく良い立地にあるんですけれど、昔校長先生が住んでいた、三棟からなる建物で、母屋、納屋、小さな倉庫があり、これを改修するにあったて、横尾忠則の美術館にしたいと依頼がありました。

(図-63)

どうやって改修するかにあたり、まずは三つの建物の順路から考えました。普通この家に入っていく時は、このまま母屋に入る動線だと思うんですが、あえて三つの建物に体験を分ける事を最初に決めながら、その場所場所にあった体験を設定していくやり方をしています。(図-63)実際改修を行っていくうちに、母屋以外の二つはどこかの建物の廃材を後で造った様な形跡があって、そのまま使うのはとても難しかったので、母屋以外はほとんど新築にしています。この塔は滝のインスタレーションなんですが(図-64)、この塔はコンクリートで増築しています。10㎡に増築を押さえて、確認申請を通さないようにしています。これが実際に出来上がったものなんですけれど、フェリー乗り場から歩いていくと、これが見えてくる。シンボリックな美術館のシンボルになる。これが建物のファサードなんですが、赤いガラスが特徴的な素材で出来ています。(図-62)

(図-64)

エントランスは、赤いガラス越しに庭が見えるんですが、庭をモノクロで見せたい思いがあって、赤いガラスを使っていて、受験用下敷きの様なトリックがあるんですが、横尾さんと言えばカラフルな色が一つの特徴だと思うんですけれど、それを一度消して、もう一度新しく出会う場を作ろうと考えました。(図-65)

(図-65)

横尾さんはもう二軒美術館があって、青木淳さん、村野藤吾さんが造っていて、これが三軒目になるんですが、すごく小さくて、内見的な、横尾さんを空間ごと体験したいという思いがありました。この建物が福武財団になるんですが、福武さんから美術館のテーマを与えられて、この豊島にもう一つ西沢立衛さんが造った、誕生をテーマにした母系の美術館があって、集落からは慣れた自然の中に、すごく抽象度の高い繊細な空間が出来ていて、そちらが誕生をテーマにしているとすれば、こちらはもう少し生と死をテーマにしたい。そことは全くコンテクストが違うので、すごく集落の中にある好対象の立地なんですけれど。瀬戸内芸術祭の一回目に西沢さんのが大体完成していて、こちらはそれの第二回目のときなんです。雑多な日常の中に、すごく非日常を作りたく、何か強い境界線を作りたいと思ったので、赤いガラスを、生と死、日常と非日常の境界線として使おうと思いました。平面上に赤いガラスが一直線上にあり、これを超えた時に、非日常に入る。これが一つ目の展示室で(図-66)、ここは真っ暗で、横尾さんの絵の色も消えています。ここを抜けると初めて色と出会います。これを最初に提案した時に、作家として色を消される事に怒られるのではないかと思っていましたが、面白がってくれてうまく進みました。まず私がやりたかった事は、スクリーンによって、シーンを一つ一つ切り取っていくことで、横尾さんの作品は二次元の絵画が多いんですが、建築という三次元をシーンとして切り取りとっていって、少し二次元化していって、絵画と建築の親和性を高めようと思ったのですが、こういう思いを横尾さんは一瞬で読み取ってくれて、絵画的な建物としてすごくマッチするとの事が印象的でした。作品をどこにどのように置くかをそこから考えていって、例えば、わざと手前に赤い絵を置いたり、この建物のために絵をかいてくれたり。赤ガラスの面白い特性として、向こう側はモノクロなんですが、反射はカラーで写って、横尾さんのコラージュの様にも見える。ガラスの現象を使いながら、空間を造っていく。

(図-66)

最初にやりたかった事が、庭にカラフルな赤い石を置く事が分かっていたので、入った瞬間にこの庭が見えたら面白くないので、それを消すというところからも赤いガラスを持ってきました。(図-67)これでサイドを消しているわけなんですが、その後照明係の人が測定していって、赤ガラスの効果は、彩度を変えるだけではなくて、明度のコントロールもしていて、この写真だと白い砂が一番明るいのですが、赤で消すと赤い波長が一番明るくなり、白くなる現象がある。

(図-67)

これは母屋を切って、黒いガラスにしているのですが、反射と、香川県は夏は眩しくて外が見れないくらい、日差しが強いくて、中から見るとサングラスの効果ですごくクリアに見える。(図-68)実は、陰も半減以上にすごく薄くなっていて、ユーログレーのガラスに、三枚のフィルムを入れて良い濃さを出しています。向こうに見える作品をどうしても横尾さんが入れたいとの事で、その前の柱を一本取って、かなりアクロバティクな構造をしていて、隠し込んでいるんですけれど、柱の丁度部材の間にフラットバーを入れて、、鉄骨を全部隠し込んでアクロバティックに梁を飛ばしています。(図-69)

(図-68)

(図-69)

これが夜の景色です。これはガラスの反射を使いながら、床とコラージュされていく様なもので、この時点では、夜はやらない予定でしたが、どうしても開いてほしかったので、夜の光の効果も使っています。(図-70)

(図-70)

これが最後の展示室で、常に次の作品の色が見えないようになっていています。(図-71)

(図-71)

塔の中は、滝のポストカードが9000枚貼られているインスタレーションです。これは横尾さんが美術館ではやっていたものなんですが、滝なので、井戸のようなものが良いかと提案しました。上下鏡になっていて、煙突の中心に一つだけ光がぶら下がっていて、光の強さを変える事で、移り込みの距離を調節しながら、光の強さを細かく設定しています。これが横尾さんが集め続けたポストカードで、紙を貼ると弱くなるので、アクリルに転写したものを貼っています。(図-72)

(図-72)

これが最後の展示室です。(図-73)南側の光で完全に部屋が真っ赤に染まります。見ている人の服はほとんど色彩が無くなっていて、絵だけはかなり特殊な舞台照明を使って、赤い光をキャンセルするようにマスキングを貼っています。南側からの光が強かったので、二個使っています。そのせいで、かちっとマスキングできるはずだったのですが、若干ぼやけています。空気まで赤く染まった部屋ということで、一番気に入ってもらえました。反対側を見ると、赤いガラスに映っている。この絵が一番思い出深い絵です。一番最初にプレゼンテーションして渡した模型写真を、大分時間が経ってから横尾さんのアトリエに行った時に、渡したアングルで絵を書いていて、横尾さんなりの計画図として書かれています。(図-74)美術館の特徴としては、建築と絵が同時に出来ていく体験があって、面白いです。

(図-73)

(図-74)

これが大本の建物の写真です。(図-75)結構朽ちていて、柱は8割程度ダメになっていたので取り替えて、梁は割と生きていました。

(図-75)

これは会期中の絵です。瀬戸内国際芸術祭、春、夏、秋とあって、夏にオープンなので、春会期の時に何かやり対と思い、赤いガラス越しにモノクロの工事現場を見せるのは面白いのではないかと思って、無理を言って、先に赤いガラスを入れています。近所の人も、オープンと同時に赤いガラスを見ると驚くので、これで免疫がでて驚かなかったんじゃないかと思います。(図-76)

(図-76)

布野:ユーログレートかガラスは、日本で言うと旭ハウスや日本板硝子ではない?
永山:ユーログレーは日本のメーカーが作っているものなんですが、赤ガラスは合わせガラスの中にフィルムを入れこんで焼くんですが、その特殊なフィルムが日本ではピンクとか海老茶とか、はっきりとした赤が無くて、世界中を探して、アメリカに一軒だけありました。でも一重では弱かったので、二重に重ねて、合わせガラスに挟み込んで焼いています。
布野:要するに、大手ではないの?
永山:ガラス自体は大手なんですが、フィルムは特殊なものなので、ルイ・ヴィトンをやっている時からお世話になっていた、旭ビルウォールという会社に、世界中を探してもらいました。本当に赤がちょっとでも薄いと赤が消えないんです。なかなか見つからなくて三ヶ月くらい探していました。また、この美術館が1000人の町である豊島に出来る時に、地域の人たちに、地域の人たちの美術館と思ってもらえるように、庭の石のタイルは、中学校で貼ったりとか、(図-77)餅撒きをしました。

(図-77)

アットアート宇和島といって、丁度、豊島の横尾館がさっき言った、瀬戸内国際芸術際の時に出来たんですが、地域と一緒にアートやイベントを行う事はとても楽しそうだった。それによって、若い人が豊島に移り住んだり、豊島に住んでる人が民泊を始めたりして、似たような事を宇和島でも出来ないかと考え始めて、木屋旅館を舞台にアートイベントをやってみようということで、市と福武財団から700万程度のお金を得て、イベントを行いました。木屋旅館とシュチュエーショナリーの二カ所で行ったんですが、シャター街になっているアーケード街の文房具屋さんを、サイドゴアと呼ばれるアーティスト達と行いました。木屋旅館は、私と映像のアーティストである樺山さんと、小説や絵を描いていて、今日の猫村さんという漫画を書いている、ほしよりこさんの三人で作ろうとなりました。これがその時の写真なんですが、(図-78)最初に2人に建築を見に来てもらって、ほしよりこさんに、ここを舞台にした小説を一本書いてもらって、それを元に映像化してもらいました。

(図-78)

なので、さっきあった普通の空間が、一つのアートの現場として、しかも泊まれるように。これは欄間が動いたりするとか、(図-79)これは実際映像なんですけれど、空間のどこを使ったら良いか、どうやって使ったら良いかを一緒に話し合いながら一ヶ月間行いました。その間、昼間は一般の人も見れるようにしています。やりたかったことは、どうしても泊まる場所なので、宇和島市の人で一回も入った事無い人がたくさんいましたが、このイベントをきっかけに見に来てくれる地域の人がいまして、現代アートは難しくてよく分からないけれど、結構面白いと言ってもらえました。瀬戸内国際芸術祭は結構複雑で、福武財団が行っている会社と北川フラムさんがやっている会社と分かれていて、私は福武財団の方で行っています。外側からプロジェクションするなど、割といろいろな方が見に来てくれて、建築とアートと、ちょっとしたハプニングみたいなものを町の中で結ぶ企画です。

(図-79)

これがもう一つのアーケード街の方です。(図-80)

(図-80)

これが最後のもので、最近のものなんですが、群馬にある山名八幡宮という名前の神社の改修です。(図-81)まずお守り授与者の改修です。丁寧にお守りを渡したいという事で。中に入った時に、鎮守の森の中と感じられたら良いなと思って、上をガラスにしています。カウンターは黒漆喰を使用しています。(図-82)

(図-81)

(図-82)

これが本殿の方で、本殿は文化財にもなっていてあんまりいじれないんですが、照明とファブリックだけを変えています。照明を変える時も、元々はろうそくの光で下から上に照らし上げて、天井絵があるように映るのですが、今の寺院は蛍光灯が潰されているような状況で、それをまず変える事と、ファブリックを変えていく事で雰囲気を変えています。(図-83)

(図-83)

以上で終わりです。

討論

神田順

神田:魚谷さんに伺いたいのですが、京都で古い建物の改修をする時に、建築確認を出すことがありますよね。そうすると、建物の外装などはそのままで良いのですか?集団規定や防火規定はかかっていないんですか?

魚谷:かかる所もかかっていない所もあります。100㎡の用途変更ではかからないですし、200㎡超えるとかかってきます。

神田:100㎡以下も、壁を抜いたりしたら大変な事になるよね。

魚谷:現状よりは、構造に関しても、防火に関しても、当然良くしています。たまに、建築基準法の適用除外にして、市が認めて行政と一緒に、文化財としてではないのですが、やる場合があります。

神田:ちょっと自己紹介します。ここのコアメンバーの一人なんですが、2003年から建築基本法の制定運動をやっていまして、谷中では『建築ジャーナル』の西川さんが改修するんですが、今日の魚谷さんの話の京町家の場合に似ているんです。要するに、基本法を満足すれば社会に受け入れられるという方向に持っていきたいと思っているんです。建築基準法の雁字搦めが必要な大量生産の会社はあるけれど、そうじゃなく一つ一つっていうところは、専門家と建築主が責任を取るという形ですね。そういう仕組みをオープンにつくりましょうという事をやっているんです。

布野:魚谷さんに聞いたんですが、町屋をホテルにすると、カウンターがいるとか瓦屋根でないといけないとかそういう条例がある。そうすると、検査員来る時にカウンターを仮にベニヤなどで作っておくとかしないといけないといったことがあるんですね。

香月真大

香月:僕も最近伊豆大島や鎌倉とかで、古い町屋のリノベをやっていて、検査済書が無い場合が多いんですが、そういう場合、僕は行政とやり取りする時、すごくイライラするんです。金物入れられないとかあるんですが、対策の方法も、行政側の人が若くてちゃんと言えないんですよね。

布野:四半世紀前に京都大学に行った時に、横尾先生がいらっしゃって基準法の問題を盛んにおっしゃってました。検査済書を出さないワースト1は大阪、ワースト2が京都。次が福岡ということでした。検査済書ぐらいとりましょう、と思ったんですが、どうも関西にはお上の言うことには楯突くという気分がある。また、都市の成立ちも違うんです。建築基準法の42条2項道路の規定にしても、京都は路地があって、簡単じゃないんです。大阪も道路網はぐちゃぐちゃになって、中央スタンダードの建築基準法を全国一律で適応するのはおかしいのではないかという議論はしてきたんです。消防車が入らないから消防車を小さくしろという議論も本気でしていました。今は緩和しましょうということで、彦根など城下町の小さい特区を作りましょうとなった。その他条例の定めるところというのを使って、文化財扱いするとか、そんな方法しかなかった。いかに、建築家が信用されていないか。京都については、建築基準法や条例のおかしい事例については、魚谷さんがいっぱい知っている。

魚谷:まず、既存不適格に関して言うと、町屋である事は、ほぼそのまま既存不適格なんです。つまり、戦前からの建物なので、確認済書が無いんです。建築基準法が出来る前の、昭和25年以前は既存不適格なので、逆に楽です。既存不適格である事を証明するためには、25年以前に建てられたという証明を持っていけば良い。法律を守っていますか、という質問には、もちろん守っています。用途変更で申請する時は、確認申請書も出していますし、そのかわり、グレーな部分に関しては、フルに活用するようにしています。突っ込まれた時は説明できるようにしています。

長谷部:本日はそれぞれ違ったアプローチで活動されているお二人の話を大変興味深く拝聴することができました。これまでアーキテクト/ビルダー研究会では、建築家と工務店等の関係性を同時に考えて行こうとしていますが、僕はそこに産業が入り込んでくるのではないかと考えています。永山さんの仕事は大企業が施主ですし、魚谷さんは事業者と共業されています。一点目は建築家と産業としての事業者との共業の仕方や、仕事のつくり方についてもう少しお話を広げていただけるとありがたいです。
それから、お二人は町屋や旅館など特殊な改修に関ることが多いように感じましたが、僕が改修設計に関る場合は、一般的にもそうだと思いますがやはり住宅が多いです。住宅改修の仕事が発生する順番は、施主の自宅のポストに町のリフォーム屋さんからフルリフォーム880万円みたいなチラシが入るところから始まります。それを見た施主が、そこにお願いしようと電話をかけ面談し、見積を取ると結局、1200万円とか1500万円とかになって、だったら新築の方が安いと言われます。それに疑問を持ったり、予算が不足していたりする時に、僕に相談があったりします。疑問を持たない方は、そのまま新築に切り替えているのかも知れません。対象となる建物は建築基準法が施行された後の住宅です。改修時には、空間の更新だけではなく断熱や耐震もセットで要望がされることが多いので、基準に乗っ取り計画を進めるとどんどんコストが上がります。そこで、既存壁を少し壊して、耐震金物つけた、プチ耐震改修や、大壁の柱間に壁を新規でつくり、その隙間にスタイロを貼った、プチ断熱改修をしています。この方法だと確認申請が不要な小さなリフォームになります。今日は、改修時の断熱や構造補強などの話はなかったので、二点目はそれらについても、お話いただきたく思います。
さらに追加すると、木造在来の改修は自由にできるという話がありました。魚谷さんの手掛ける改修には、アウトフレームとハウスインハウスみたいな手法があったように思います。そういうものをやりながらの既存の残し方についても聞きできると幸いです。住宅に関してはその3つです。
それから、シェアハウスについてですが、東京でも一昔前はすごく流行っていましたけれど、本当のところ今ではあまり使われていないのではないかと思います。例えば、一軒の家にみんなで住むような話がありましたけれど、僕自身は住めないと思っています。いかがでしょうか?
今日の永山さんのお話は、設計方法論にウエイトを置いていたので、先にお伝えした仕組みの話とは異なってきますので、別の機会に話させていただくこととして、魚谷さんを中心にお話いただけませんか。

魚谷:仕事はおっしゃる通りで、いろいろな仕事の方法をしています。そもそも、建築家は、どこどこにこれを建築してくださいとくる。例えば、京都に地域交流なんとかを作ってほしいときても、その場所に作っても交流しないと思って設計するのは嫌だったので、企画の段階から関わりたいとずっと思っていた。それで、いきなり電話が来てこれを造ってくれという設計もあるけれど、例えば、一軒買ったんだけれど、これどうしたら良いかなという所からスタートして、宿にしましょうと。それで僕が、お金をちょっと出してくれる人を紹介したりなども今はあります。京都だったら、更地も含めて、物件情報がたくさんあるので、物件もないけれど何かしたいって言うのもあるので、仕事はいろいろです。京都とそれ以外は違うと思っていて、京都に関しては、町がこうなれば良いというのがあるので、どんな話でも、そういう風に持っていけるかどうか考えて、どうしても無理な場合は断ります。京都では、仕事は割と選んでいます。半分くらい断っています。町屋改修が専門になる事もコンプレックスなので。断熱に関しては、町屋は天井が低い事が多いので、既存の天井を剥がして、勾配天井を造った方が良い。そうすると暑いので、断熱を入れる事が多いです。高気密である必要はあまりないけれど、低気密、高断熱になるようには改修をしています。最近、天井を剥がした、板が表しになっている、とんとんと呼んでいるんですが、それを残そうとすると、断熱性能が悪くなるので、その時は、それを見せつつ、後ろに小さい部屋を造って、そこに入るとエアコンが効くし、こっちに出ると、空間は広いけれど、暑かったり、寒かったり。そういうメリハリを付けたりしています。

布野:断熱については、日本は寒い地域を念頭に高気密、高断熱が推奨され、制度化されるけど、全国一律の制度はよくないということをもっと主張すべきですね。

長谷部勉

長谷部:新築は改正省エネルギー法ができると、高気密、高断熱をせざるを得ないわけですよね。

布野:夏を旨とすべし、というのに還って考える必要がありますね。そうしないと、インドネシアなど、これから30億人増えるんですけど、それは熱帯地域ですよ。それを高気密、高断熱で、人工環境化していく、空気調和を行うとなったら、地球はパンクします。日本がモデルをしめすべきです。ヨーロッパは、基本的に冷房は要らないんだよね。

神田:早く基準法を無くして、自治体ごとに条例でぜんぶやる。少なくとも、北海道と九州で同じ事は無いですよね。

長谷部:今のとこ、しばらくは改修でしか出来ないという事ですよね。

布野:パッシブを大原則に出来ないの?仕事はもらわないとだけれど、個別のクライアントとも戦わないといけないんじゃない。

長谷部:クライアントではなく、行政ですね。

神田:行政とは戦えないよね。立法から変えていかないと。例えば、24時間機械換気はおかしいというのを皆で署名を集めればいい。

長谷部:逆に改修で、低気密、高断熱ではなくて、こっちの方が良いといっていく必要もあります。

布野:魚谷さんは、永山さんの仕事どう思いますか。

魚谷:僕の悪い癖で、今設計中のもので、赤いガラス使おうかなと。蔵をレストランにされていますよね。4㎜の鉄板に漆喰を塗ってつっているんです。京都で仕事をしていたら思いつかない事なので、刺激を受けています。

永山:すごく面白かったのは、ファンドをつける話で、企画から行うというのが面白くて、今、温泉宿のリノベーションをしているんですが、内容から考えて、どういう新しい場所を作るか、どんなコンテンツを入れるか、ホテルの人と一緒に考えるんですが、新しいツーリズムはどうなるかとか、その先を考えたりとか。

神田:その時に、設計料いくらとか言われたりします?

永山:しないです。お互いにじわじわやっていって・・・。

香月:僕も企画段階からかかわることがあるんですが、企画段階だと設計料を言い出しづらい。

永山:企画料をとるようにしたら良いですよね。

香月:交通費は出してくれるんですが、鎌倉の場合は自腹でした。ホテルの案件も、銀行に融資を依頼するところからやっていて・・・お金の話はあとになりますね。

布野:弁護士は、事務所に来いって言って、来たら何千円とか言いいますね。建築家はただでやるのが当然でしょみたいな建築風土がある。

香月:調査料や企画料でちょっとはもらうようにしていますけど、なかなか言い出しづらいところがあります。

布野:町場って言いましたけれど、日本の住宅はどうあれば良いかということですよね。数千万の住宅ストックがあって、空き家が800万戸くらいある。その中で、京都で魚谷さんが行っていることが一つの回答ですね。今てこ入れすれば、在来の木造住宅は20年もつ。これは、今のインバウンド時代にうまく合った。これまで入管が厳しすぎたんです。今もアメリカより厳しいんですが、中国からの旅行者の爆買いもあって、宿泊事業に日があたってる。実際は、民泊でいろいろなトラブルがあるけれど、ストックをどう活用するかという意味で、魚谷さんのやっている事は理解できます。永山さんは、空間をリノベートする時の作法、アイディアが実に豊かですね。

安藤正雄

安藤:既存の町に対して、建物に関して、どういう風にしていくかということは、また深い別の問題があると思います。今日、魚谷さんには、もう少しデザインについての話を聞きたかった。結局、2人の話を聞いて、何を感じたかと言うと、建築のデザイナー、設計者と誰かさんとの共同、コラボレーションのあり方です。永山さんは、アパートのプロジェクトにしても、構造の方ともコラボしているし、横尾忠則さんともコラボしている。本当に強い意志とアイディアを持っていて、専門家とのコラボレーションが成立してきていることに感銘を受けた。魚谷さんの説明の多くは、ファンドの話や、どうやって仕事になるか、ということでした。日本の社会はどうも今までに無い事を事業としてやる時に、一人の建築家の構想がすごく大きくて、それを牽引してかからないところに、すごく無駄な労力を使っているのかもしれない、と思うんです。布野先生のお弟子さんの田中康治さんが、ロンドンで、ディベロッパー、またはそれに近い事をやっているんですが、ロンドンの建物はほとんどが既存の建物の改修や立て替えなんです。ほとんどの建物が歴史的建造物としてリストされている。そうすると、その建物に手を付ける時に、スタッフ、建築の保存に関わる委員会がコンサルの役も果たす。床をどうするかという時に、すごく専門的なサポート業務が、それぞれ専門職として成り立っていて、建築家というのは、その中の一つの大きな役割なんです。それから、魚谷さんがこういう状況をすごく牽引していることはわかるけれど、一体我々の社会というのは、どういう風になっていくのかと、思うんです。専門家が育っていく仕組みが成熟していくといいと思います。

布野:カイロの歴史的市街地には、京都と似たようにリノベーション需要があります。歴史的建造物としては、十何世紀遡ります。石造の建造物の残骸みたいなものが沢山のこっているんです。魚谷さんに京都の事例を発表してもらいましたら、それですごく盛り上がりました。田中康治さんにも来てもらいました。

広田直行

広田:カイロの歴史保存、世界遺産地区の集合住宅の改修について調査している先生がいまして、そこの調査を我々も行ったんですけれど、その中で、カイロの町をどうやって、改修していけば良いのか、活性化していけば良いのかというワークショップを行ってきました。そのカイロのワークショップの参考事例にならないかという事で、魚谷先生にご発表いただいて、相手はカイロの地域住民の方々で、京都の町屋の事例を見ていただいて、それから、何かカイロの歴史的保存地区の再生に学ぶ所はないかということで、情報交換をしました。

宇野求

宇野:東京のことをやってきていますが、国内に留まっているのはもったいないことですね。永山さんは、光や素材で明るさ暗さを変えているけれど、イスラームの古い建築だったら永山さんはどうするのかなとか、そういう風に、新しい考え方をどんどんやっていった方がいいと思う。国内の問題を論ずる所かもしれないけれど、今この場は、国内の問題を論じているのではなく、現代の問題を論じていて、それぞれの経験をどういう風に活かしていくのか、ということだと思います。という風に僕は受け止めました。木造のストックの活かし方はまだまだあるんではないですかね。

田畑英樹

田畑:新日鉄エンジニアリングという会社で鉄骨の仕事をしております。仕事は鉄骨の新築の仕事ばかり行っているんですけれど、古い建物を手をかけながら使っていくことは、個人的にすごく興味があるので勉強しようと思いました。魚谷さんのオーナーの関係とか、古いものを残す事はすごく難しいと聞いていたので、どうやって行っているのか、苦労があると思っていたんですが、そういう話もお聞きする事が出来て、勉強になりました。

佐藤敏宏

佐藤:セシウム・トシこと佐藤俊宏です。元エア建築家です。その前は建築家でした。地方の工務店が潰れかけていたので、請負っていた仕事を建築家として造り、建築会社もたたみつつ、発注者にも満足を与える、全く新しい仕事だと思うんですが、やっています。地方が縮退している時に、請負った仕事を仕切ると、建築家が泥棒みたいに思われる。魚谷さんには、エア建築家の時代に、独立系建築家の聞き取りをやっていたときに会いました。全国を自腹で回るプロジェクトだったんですが、運良く東日本大震災とセシウムが降ってくれたおかげで、お金がいっぱい集まって来て、また活動を開始しているところです。東京、大阪、京都などに行って、被災地の報告をしてきたんですが、それが一段落したのでまた歩いています。
今年の2月に京都に行きましたら、観光ブームで、外国の人たちが来ていて、町を改修している。その組長が魚谷さんでした。福島でも古建築の改修をする事をやっていますが、仕組みは、伝統建築と文化財に関するものですね。動かしているのは県庁マンです。たった一人で、変態扱いされながらも、伝統建築を残す事をやっています。ただ、活用方法は全く未定です。ただ残すだけで、それを宿泊所にするとか、レストランにするとかは、全くありません。魚谷さんの場合は、お金は、中国人、外国資本ですよね。伝統建築に関する仕組みも全くなく、勝手にやっているわけですね。ただ、福島県と似ている所は、市役所の方が、矛盾した所を繋いで、どっちにも入知恵しつつやっているところです。
永山さんについては、個人的な話になりますが、おばあちゃんから3万円支援してもらいました。ご存知でしたか。

永山:えー、全く知りませんでした。

佐藤:それはともかく、永山さんは、ベネッセコーポレーションという福武書店とコラボレーションしていますね。観光地で金儲けするのがグローバル企業の作戦であり、それが魚谷さんのやっていることと大きく違う所かと思います。リノベーションを動かして組み合わせている人は誰なのか。京都市役所の文山さんと魚谷さんが勝手にやっている京都の事例、それと、福島に孤立している県庁マンの事例、謎のベネッセコーポレーションと永山さんの事例それぞれどうなのか。永山さんとベネッセコーポレーションを誰が接続したのか、最後に質問したい。それともう一つ、未来の建築家にメッセージが与えられているように思うのは、二次的創作みたいに見えるんですが、横尾さんの作品を赤いガラスを入れる事によって脱色している、その操作で違う作品になっている。そして、古い建築を読み替えるという事で、二つの意味で変換している。僕にとって新鮮だったし、可能性があると思う。魚谷さんの場合は、金持ちのための直し方みたいなもので、甘さがある。未来の金持ちに対しては有効かもしれないけれど、芸術を行う人にとっては、あまり刺激が少ないかと思う。自分がやっている有名ではない建築の方が、刺激があるかもしれないという勝手な判断をしました。それで、永山さんとベネッセコーポレーションを繋いでいる仕組みがあると思うんですが、それは何ですか?

永山:カヤバ珈琲の時に、スカイザバスハウスというオーナーさんがいて、そこに所属しているのが横尾さんです。

佐藤:地域住民が参加してというけれど、恐らく嘘だと思う。地域の人たちにとって、必要な建築を改修してみるというんですが、必要であるかのように振る舞いつつ、強いものが繕っていると思うんですけれど、その可能性についてどちらに所属して、どういう仕事を展開していくか、ということについてどう考えていますか?

永山:両方を繋げる事が出来ればと思います。場所に何回も足を運ぶと、そこの人たちの状況も分かるし、それに反対派の人もいれば、そこに可能性を感じている人もいて、そういう人たちの、ちょっとした感情の差みたいなものも見えて来ます。豊島の横尾館をやってから、福武さんから直々に、そこのランドスケープを監修してくれないかと言われました。その時に、地方の問題でもあるなと思うのは、地域の人たちがやるといろいろな思いがあって、なかなか決まらないんです。でも、私が行って、よそもののわけの分からない人が言った方が良くも悪くも、進むきっかけになる。私は、悪者の役をやるかもしれないけれど、良い者役もやる、と思っています。

佐藤:未来から来た未来人が、何か分けの分からない事を言っている。それで、未来の建築を造っているという自覚はありますか?

永山:どっちの話も聞くけれど、ある意味ではどっちの話も聞かなくて、ただ、石を投げないと動かない状況があるんです。ずっと停滞し続けて、あの町のもいくつかの集落があるのですが、仲悪かったですとか、入植者の年代によって違う考えがあったり、人が入ってほしくないという人がいれば、すごくいっぱい人が入って来て、儲けたいという考えの人もいる。鎮守の森があって、豊島というのは、すごく豊かな島なんですけれど、そこをアートではなく自然を見せたい。

布野:セシウム・トシちゃんの指摘はいつも鋭いけど、どんな地域にも軋轢葛藤がある。被災地になるとそれが剥き出しになるんだよね。豊島と言うのは、廃棄物の島だよね。

永山:そういう黒い歴史もあるんですが、いろいろな人の意見がある中で、その中で優劣つけるしかないと思っています。

佐藤:もう一つ質問していいですか?永山さんは、これからも新築を造ると思うんですけれど、それは100年経ったら、古建築になるわけですよね。その時に、新建築を造るものとして、どういう風な未来の古建築に対して、それをリノベする永山さんに対して、どういうメッセージを、またどういう方法で。新建築をやりながら、未来に向かいながら、連続させていかないと行けない。新建築という雑誌があって、古建築という雑誌はないですよね。新古建築もないですよね。未来建築もないですよね。新建築を造る建築家の中に、未来の古建築を監視する、まだ生まれていない建築家に、どういうメッセージを、どういう方法で、妄想でも何でも良いんですけれど、それを考えながら造っているのか、それは知った事ではないというものなのか。

永山:それは結構考えていて、自分がリノベーションした時に、それを造った人は、違う文脈だったかもしれないんですけれど、今見ると、そこが新鮮で、私はそこをピックアップして、編集者の気分なんですけれど、その時点で、現代に一回引き戻しているような感じなんですね。だから、私が建てた建物が、何年後かに、その時代の感覚で読み替えられる事を、面白いと思っていますし、期待している所で、そうやって、色々な時代によって、いろんな読み替えがされていった時に、そこには何か蓄積された層があって、それがすごく都市的だと思うんです。東京の町の複雑さとか、色々な所の深みは、訳の分からないまま誰かが来て、これはこれだと読み替えていって、次の人がまた読み替えを行っていって、それで、何回も、何回も行っていく事で、恣意的なストーリーとは外れて、それがニュートラルに戻る時に、すごく建築の強さが出るような気がして、そういう風に私は行っていきたいと思います。

佐藤:建築家は物を造るだけではないということですよね。

永山:そうです。

魚谷:新築も改修もそうだけれど、僕はアートとして建築を造ろうとは思っていません。改修の時に、特にそうなんですが、誰かが造った物に改修が加えられて、今に至る。それに、50年100年とすると、また誰かが手を加えるかもしれない。完成させようということはないです。安藤忠雄さんは、よく改修する時に、古い物と新しい物の対比と言う。古い物と新しい物の対比というと、それで終わってしまい、次に繋がらないと思う。そうならないように考えたい。

神田:今思っただけなんですが、要するに、佐藤さんがおっしゃっていたのは、建築家は、新しいものを造って、コンセプトを説明しますよね。それはどちらかと言うと小説家みたいな形で、本来住んでいる人たちは、語り部のような建築家が必要で、それをおしゃっていたのかと思ったんですが。

佐藤:もちろん、建築語り部としての役割もあるし、地域に保存して、皆が豊かになるみたいな、ある種の仕組みを作る問題もあるだろうし、新しい建築だけを造っている建築家じゃない方が普通だと思うんですけれど、どうもそれが、未来のセシウム都市から来た僕には、北朝鮮が明日ロケット発射すれば、東京も未来のセシウム都市になる可能性もあると思うので、セシウムから身を守る事も大切で、福島の経験をどういう風に生きていた人たちに繋いでいくか。記録を作ったり、工具を造るなど、考えていた方が良いと思う。そういうことを自覚的にできるのは、建築家と呼ばれるおかしな職業だけだという気がします。

古瀬敏

古瀬:今日のリノベの話とは必ずしも繋がらないのだけれど、私の妻の母親が小さい土地を持っていて、汐留の再開発に引っかかりました。結果として、鉛筆ビルが5本並ぶ所の真ん中に建っていて、そこはイタリア街という、ビィータイタリアというものをやっているんですが、監修をお願いして、2層と真ん中と一番上には、三つのデザインで揃えてくださいと。周りの5本は、9階建てで、高さが揃っていて、うちが一番狭いんですけれど、電信柱が無かったりもするので、ぱっと見には外国に見えるわけ。少なくても、50年はもつと思う。都会に建物が普通に存在して、設計者の思惑が全面に見えているわけではない形で収まっているのかと思います。なので、とにかく、違う物を造ってくださいという思いをしないのがいい、と個人的には思っています。

深尾精一

深尾:永山さんは感性の女王と思っていましたが、香月さんのフェイスブックで知って、何で、永山さんがリノベの女王かと思って、遅れてでも、来なくてはと思って来ました。議論は大体わかっています。

布野:おそらく今日が『建築討論』との共催するかたちでの「けんちくとうろん」の最後になります。来年以降どうなるか分かりませんが、リノベーションの問題、建築家が町場の住宅に対して、どういう風に、何を仕事とすれば良いかという問題、アーキテクト/ビルダー研究会としては、引き続き、色々考えたいと思っています。
(原稿整理 長谷部勉:文責 布野修司)

魚谷繁礼

1977年生まれ。兵庫県出身。1996年大阪教育大学附属高等学校池田校舎卒業。2001年京都大学工学部卒業。2003年京都大学大学院工学研究科修了。2016年~京都大学『設計課題』非常勤講師。2016年~2017年 神戸芸術工科大学『設計課題』非常勤講師。現代京都都市型住居研究会共宰、都市居住推進研究会運営委員会、日本都市計画学会関西支部次世代の関西検討委員会、京都府建築士会広報編集委員会、日本建築家協会近畿支部住宅部会 世話人、日本建築学会東日本大震災復旧・復興支援部会復興住宅提言WG、平成の京町家コンソーシアム運営委員会、経済産業省中心市街地商業等活性化支援業務有識者検討会、京都市路地保全・再生研究会。受賞:2016年 京都デザイン賞2016 京都市長賞/2015年 京都デザイン賞2015 京都府知事賞/2013年 京環境配慮建築物顕彰制度 優秀賞/2012年 日本建築家協会関西建築家新人賞/2011年 大阪ガス住宅設計アワード2011 特別賞/2011年 京都デザイン賞2011 京都府知事賞/2009年 SDレビュー2009 入選/2009年 環境デザインアワード2009 環境デザイン優秀賞/2009年 環境デザインアワード2009 ベターリビングブルー&グリーン賞/2008年 田舎暮らし構想究極の住まい設計コンペ 優秀賞/2008年 日本建築家協会優秀建築選2008 入選/2008年 木材活用コンクール 住宅部門賞/2007年 臼野古民家村構想デザインコンペ 最優秀賞/2007年 都市住宅学会賞 業績賞(現代京都都市型住居研究会)/2007年 地域住宅計画賞 奨励賞(現代京都都市型住居研究会)/2006年 京都まちなかこだわり住宅設計コンペ 最優秀賞。著書に『住宅リノベーション図集』(オーム社、2016年)、ほか共著書多数。

永山祐子

1975年東京都生まれ。1998年昭和女子大学生活科学部生活環境学科卒業。1998年青木淳建築計画事務所入社。2002年青木淳建築計画事務所退社。2002年永山祐子建築設計設立。2006年東京理科大学非常勤講師。200年京都精華大学非常勤講師。2008年昭和女子大学非常勤講師。2009年お茶の水女子大学非常勤講師。2010年名古屋工業大学非常勤講師。受賞:2004年中之島新線駅企画デザインコンペ優秀賞、2005年つくば田園都市コンセプト住宅コンペ2位、2005年JCD デザイン賞 2005奨励賞「ルイ・ヴィトン京都大丸」、2005年ロレアル 色と科学と芸術賞 奨励賞「Kaleidoscope Real」、2006年 AR Awards Highly commended賞「a hill on a house」、200年ベスト デビュタント賞(MFU)建築部門受賞、2012年 Architectural Record Design Vanguard Architects 2012、2014年日本建築家協会JIA新人賞受賞「豊島横尾館」。

安藤正雄

千葉大学名誉教授。1948年生まれ。東京大学工学部建築学科卒業(1972)、同大学大学院工学系研究科工学修士課程修了(1974)。建築生産、建築構法、構工法計画、住宅生産、ストック型ハウジング、建築生産、プロジェクト・マネジメント、植民都市に関する研究などをテーマとして建築学研究に取り組む。千葉大学工学部講師(1976~)、千葉大学工学部教授、千葉大学大学院工学研究科教授を経て2014年千葉大学工学研究科名誉教授就任。「インターフェイス・マトリクスによる構工法計画の理論と手法」日本建築学会賞(論文)受賞(2004)。共著に「変革期における建築産業の課題と将来像」、「建築ものづくり論-Architecture as “Architecture”」他。

布野修司

建築討論委員会委員長。日本大学特任教授。1949年松江市生まれ。工学博士(東京大学)。建築計画学、地域生活空間計画学専攻。東京大学工学研究科博士課程中途退学。東京大学助手,東洋大学講師・助教授,京都大学助教授、滋賀県立大学教授、副学長・理事を経て現職。『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究』で日本建築学会賞受賞(1991)、『近代世界システムと植民都市』(編著、2005)で日本都市計画学会賞論文賞受賞(2006)、『韓国近代都市景観の形成』(共著、2010)と『グリッド都市:スペイン植民都市の起源、形成、変容、転生』(共著、2013)で日本建築学会著作賞受賞(2013、2015)。

斎藤公男

構造家。A-Forum代表。日本大学名誉教授。1938年群馬県生まれ。日本大学理工学部建築学科卒業(1961)。日本大学大学院修了(1963)。日本大学理工学部建築学科教授就任(1991)。日本建築学会・第50代会長(2007~2008)。日本大学名誉教授(2008~)。日本建築学会賞(業績)(1987)。松井源吾賞 (1993)。IASS Tsuboi Award(1977)。Pioneer Award(2002)。BCS賞(1978、1991、2003)。日本建築学会教育賞(2009)。IASS Torroja Medal(2009)。主な作品に、岩手県体育館(1967)、ファラデーホール(1978)、酒田市国体記念体育館、天城ドーム(1991)、出雲ドーム(1992)、穴生ドーム、船橋西台前駅(1994)、唐戸市場、山口・きららドーム(2001)、静岡・エコパスタジアム、京都アクアリーナ(2002)、金沢駅・もてなしドーム(2004)、他。著作に「建築の構造とデザイン」(共著、1996)、「つどいの空間」(共著、1997)、「空間 構造 物語」(2003)。「建築の翼」(監修、2012)、「風に向かって」(2013)、「新しい建築のみかた」(2014)他。

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