「フクシマ」の過去、現在、未来 08
原発事故被害者の集団訴訟と福島復興政策
Reconstruction Policy in Fukushima and Collective Lawsuits for Nuclear Accident Compensation

福島原発事故の被害者による集団訴訟が全国各地に広がっている。北海道から九州まで20の地裁・支部に及び、原告数は1万2000人を超える。いずれも国や東京電力(以下、東電)の責任を追及するとともに、深刻で広範な事故被害の実情を明らかにし、損害賠償や汚染された環境の原状回復を求めるものだ。
集団訴訟で初めての判決が、2017年3月に前橋地裁で言い渡された。その後、9月の千葉地裁、10月の福島地裁と続き、2018年3月にはさらに3つの判決が予定されている。集団訴訟は、原告本人の救済にとどまらず、国と東電の責任追及を通じて復興政策のあり方を転換させていくという射程も有する。以下では、これら集団訴訟の取り組みの意義について考えたい。

「加害者主導」の賠償を問う

2017年に出された3つの判決に共通するのは、裁判所が現行の賠償基準にとらわれず、独自に判断して損害を認定するという姿勢が貫かれていることだ。賠償基準は加害者である東電が決めている。これは、国の原子力損害賠償紛争審査会が定める賠償指針を受けたものである。
東電は自らが決めた賠償基準に沿って請求書式を作成し、被害者はそれを用いて東電に賠償請求をする。この方式を直接請求と呼んでいる。東電が賠償請求を「査定」し認めた範囲にとどまるが、支払いは早いので、他の手段(和解を仲介する原子力損害賠償紛争解決センターへの申し立てや訴訟の提起)と比べれば、もっとも利用されている請求方法だ。
こうして多くの被害者が東電の賠償基準で和解してきているのだが、加害者が賠償の枠組みを決めていることから、さまざまな歪みも生じている。最大の問題点は、賠償基準が被害の実情を十分反映していないため、賠償から漏れてしまっている被害が少なくないということだ。とくに、避難指示区域外の被害はきちんと評価されておらず、被害実態とずれた賠償格差が生み出されていることが挙げられる。

写真1 「自主避難者」への賠償を求める行動(原子力損害賠償紛争審査会が開かれる文部科学省の前で、2011年7月29日、筆者撮影)

3判決はいずれも現行の指針・基準ではカバーされない被害があることを認め、賠償を命じた。しかし課題も多く残されている。とくに、避難指示区域外の損害の認定は非常に低額で、原告の思いと大きく隔たっている。とはいえ、現行の指針・基準では不十分とする裁判所の判断が続いており、この流れは今後の判決でも定着していくだろう。

原発災害における復興の不均等性

政府は自然災害において、家屋など個人財産の補償は行われるべきではなく、自己責任が原則だという立場にたつ。そのため、個人に直接届く支援施策は遅れ、ハード面のインフラ復旧などの公共事業が優先される。この傾向は東日本大震災においても同様だが、とくに福島では、除染という土木事業が大規模に実施されてきた。

写真2 福島県飯舘村の除染土壌等の「仮仮置き場」(2015年6月26日、筆者撮影)

このような復興政策は、さまざまなアンバランスをもたらす。復興需要が建設業に偏り、雇用の面でも関連分野に求人が集中する。除染やインフラ復旧・整備が進んでも、医療、教育、物流などの生活条件が震災前のようには回復しないために、帰還できない人が出てくる。また、公共事業が地域外から労働力を吸引することで、住民の構成が変化し、震災前のコミュニティが変容していく。小売業のように、地元住民を相手に商売をしていた事業主は、顧客が戻らずに事業を再開できない。
復興政策の影響は、このように地域・業種・個人等の間で不均等にあらわれている。こうしたアンバランスを、筆者は「不均等な復興」(あるいは復興の不均等性)と表現した(除本理史・渡辺淑彦編著『原発災害はなぜ不均等な復興をもたらすのか』ミネルヴァ書房、2015年)。
さらに福島では、避難指示区域などの「線引き」により、地域間の不均等性がつくりだされているという点が重大だ。代表的な例として、前述した賠償格差とそれによる住民の分断が挙げられる。
また、放射線被ばくによる健康リスクの問題もある。同じ放射線量であっても、そのもとでの避難者の意識と行動は同一ではなく、個人の属性や価値観などにより多様化する。だが、多様なリスク対処行動が必ずしも尊重されず、不安をうったえる声が抑圧される傾向がある。とくに女性と子どもへのしわ寄せが大きいことが懸念される。
各地の集団訴訟の原告団は、全国連絡会を結成するなどして、相互のつながりを深めようとしている。これには、被害者間の分断をのりこえ、ともに被害回復をめざすという意図がある。

復興政策の転換に向けて――なぜ国、東電の責任を問うのか

原子力損害の賠償に関する法律(以下、原賠法)は、原子力事業者(本件の場合は東電)の無過失責任を定めている。これは被害者の救済を図るため、故意・過失の立証を不要とする仕組みだが、他方、これによって東電の事故責任の検証が不十分になってきたという面がある。しかし、今回のような事故を二度と起こさないためにも、国と東電の責任を明らかにすることは不可欠である。これは従来の原子力政策を見直していく契機にもなる。そのために、集団訴訟が大きな役割を果たすことは間違いない。
福島復興再生特別措置法第1条にもみられるように、政府は原子力政策に関する「社会的責任」は認めるが、事故被害を引き起こした国の法的責任(国家賠償責任)は認めない。政府は「社会的責任」に基づき、公共事業を福島に手厚く配分することで、復興のアンバランスをもたらしてきた。
こうしたアンバランスを克服するためには、被災者それぞれの事情に応じたきめ細かな支援施策が不可欠である。しかし現在の復興政策はこの点が弱い。むしろ政府が定めた復興期間10年の終了を目前にして、仮設住宅などの支援施策や賠償が打ち切られつつある。
国と東電の責任解明が、福島復興政策の見直しの第一歩となる。前述のように国は、自然災害において私的財産の補償を行うことに否定的である。しかし、国家賠償責任が認められる場合には、この原則はあてはまらない。
この点で3判決はどのような判断を下したか。国の法的責任については千葉地裁が認めなかったものの、前橋地裁と福島地裁はこれを認定した。また、3判決とも東電の責任を認めており、とくに前橋地裁と福島地裁は、津波対策の不備について強い非難性や過失があると指摘した(ただしいずれの判決も、東電の責任認定は原賠法の無過失責任の規定による)。

写真3 国の責任を認めた福島地裁判決について説明する生業訴訟弁護団ら(2017年10月10日、福島市内の会場にて筆者撮影)

集団訴訟を通じて国の責任を明らかにすることは、被災者個人に対する補償的措置など、通常は困難な措置を政策の俎上にのせる機能をもつ。これは、公共事業に偏った復興政策から、被災者の権利回復を主軸とする「人間の復興」へと転換していくことにつながる。
また、事故に至る事実関係と責任の究明は、それ自体が被害者にとって重要な意味をもつ。前橋地裁と福島地裁は、津波は予見可能であり、本件事故は防ぐことができたという判断を下したが、これは原告が待ち望んでいたものであり、国と東電の責任の認定は、「金目」ではない精神的救済にもつながるであろう。

公害訴訟の経験に学ぶ

これまでの公害事件を振り返ると、四日市訴訟の原告はたった9人であったが、加害企業の法的責任を明らかにすることを通じて、公害健康被害補償法の成立(1973年)を導き出し、10万人以上の大気汚染被害者の救済を実現した。このように公害・環境訴訟は、原告本人の救済にとどまらない政策形成機能をもっている。原発事故被害者の集団訴訟も、この経験に学び、国と東電の責任を踏まえた復興政策の見直しをめざしている。賠償金というところだけをみてしまうと、なぜ原告たちがあえて訴訟を提起しているのか、読み違えてしまう恐れがある。
原発事故の被害はいまだ収束しておらず、復興期間の10年で問題が解決しないのは明らかだ。集団訴訟も、一定の解決に至るにはまだ時間がかかることが予想される。2017年に出された3つの判決は、多くの課題を残すとともに、今後の展望も示す内容であった。被害者の取り組みに世論の理解と共感がどこまで広がるかが、訴訟のこれからの展開を大きく左右するだろう。ゆくえを注視していきたい。

除本理史

大阪市立大学大学院経営学研究科教授、日本環境会議(JEC)事務局次長。専攻は環境政策論、環境経済学。公害・環境被害の補償と被害地域の再生、原発賠償と福島復興政策などを研究。著書に『公害から福島を考える』(岩波書店、2016年)、『原発賠償を問う』(岩波ブックレット、2013年)、『環境被害の責任と費用負担』(有斐閣、2007年)、『原発災害はなぜ不均等な復興をもたらすのか』(共編著、ミネルヴァ書房、2015年)など。

この投稿をシェアする:

コメントの投稿

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA