東日本大震災後、復旧・復興事業を地域工務店として行う事が出来た。プレ協の傘下で、応急仮設住宅建築をはじめ、福島県の公募で選ばれその建築。高齢者サポートセンターの建築。入居者の無い仮設住宅を解体・移築。県公募の木造復興公営住宅の建築等、震災後6年実に様々な場所で多様な仕事の最前線を走ってきた。
これらの経験を通して、私なりに感じて来た事、考えた事を見つめなおす良い機会を、今回与えられた事に感謝している。私達の行って来た地域住宅産業の担い手による木造応急仮設住宅が、福島県のみならず昨年発災した熊本県においても支持され、被災された方々に仮設とは言え良好な住居を提供する事が出来た事を嬉しく思っている。合わせて私達の知らない実に様々な分野と立場でご尽力下さった全ての方々に、心より感謝を申し上げたいと思う。
1.発災直後の混乱の中で
3月11日、私の住むいわき市では震度6強の地震、津波の被害により461名のかけがえのない命を失った。しかし、私達の災害は地震・津波では終わらなかった。翌12日、福島第1号基爆発。14日には3号基、15日には4号基が爆発火災を起こす。12日には、10㎞圏内の住民に避難指示が出され、15日にはいわき市の一部にも避難指示が出された。発災直後から15日までは可能な限りの住宅補修を行っていたが、やがてガソリンが底をつき作業中止に至り、会社を休業とし全社員に避難を命じた。
原発事故の情報は、TV等で多くの学者・専門家がメルトダウンを否定していたが、噂は様々であり、事故の正確な情報は得られていない。
3月14日、国交大臣は、住宅団体連合会に応急仮設住宅建設を要請。災害時の応急仮設住宅建築協定に基づき、プレハブ協会規格部会が動きだす。しかしながらそれまでのスキームの供給力を超える仮設住宅数が必要とされ、(計72000戸の要求。)供給が困難となり、プレハブメーカーや2×4等住宅メーカーが住宅部会を組織、供給体制を整えた。その組織の一員として、当時私の所属団体、全国中小企業団体連合会・工務店サポートセンターが岩手、宮城、福島三県でそれぞれ100戸の仮設住宅に乗り出す事になる。
2.応急仮設住宅建築に至るまで
規格型仮設住宅の救急戸数を補足する住宅部会(ハウスメーカーが参加)の仮設住宅について仕様の標準化がなされた。つまり、それは規格型仮設住宅の性能に合わせると言う行為であった。赤十字の応急仮設住宅性能を基準とし、シングルガラス、@50m/m10㎏断熱材、16号給湯器(追い焚きなし)等々、私たちが日常的に建築している一般的な住宅から見れば考えられない低い住宅性能であった。仮設住宅の性能や設備にばらつきがあれば、入居者からのクレームに行政窓口が対応しきれないとの意見があり、低い基準に全てを合わせると言う公平さの方向にむかった。その後は御存知の通り、東北の寒さには対応出来ずに外壁外側にグラスウールを巻いたり、ペアガラスに変更したり、給湯器を入れ替えたり無駄な工事が多く発生した。地域性を考えずに将来起こる問題の解決を先送りにして、当面の問題に対応する行政の姿勢は非難されるべきであるが、実際は地方行政の災害時におけるマンパワー不足が問題である。
公平さについては考えさせられることが多かった。100名避難している避難所に、救援物資が90個届く。10個の不足である。皆に行き渡らないという不公平が生まれる。よって配らないという結論になる。100名の人に、その救援物資が必要かどうか聞いて、10名いらないと言う回答があれば、残り90名に配るという配慮や丁寧さが、マンパワー不足によって出来ない現実がある。
仮設住宅でも同じである。寒冷地には寒冷地なりに、居住人数や体の不自由な方の為に等々、様々な提案が可能であるが、短時間に大量の住居を必要とする災害時には、低い基準に合わせざるを得ないのも又現実である。これらの問題を解決するためには、備えとして平時にどうあるべきかの議論を重ねておく必要がある。
いずれにしても昭和30年代にとだえていた木造在来工法による応急仮設住宅建築が始まる事になった。
3.協議会設立。 労使の立場を超えて
プレ協傘下での応急仮設住宅建築を始めようとしていた4月大畠国交大臣が記者会見で「応急仮設住宅を地域県産材と地域工務店の活用で木造住宅を建築したい」と発言。国土交通省から、全国中小建設工事業団体連合会・工務店サポートセンター(現 全国工務店協会・JBN 以下JBNとする)と全国建設労働組合総連合(以下全建総連とする)、及び日本建築士会連合会(以下士会連合会)に協力要請があり、これを受け3団体で「地域再生・ふるさとをふるさとの人の手で」の理念の基、以下の目的のために「応急仮設木造住宅建設協議会」を設立。
・地域の力による地域の復興をめざし、地域に希望と活力を。
・被災地につくる応急仮設住宅建設費を被災地に落とし、被災地復興につなげる。
・同時に仕事を失った多くの大工職を初めとする建設労働者が安い賃金で使役されるのを防ぐ。
JBNと全建総連は、一方が元請工務店団体であり、もう一方が労働者団体である事から、利益相反の関係にあり、それまで同一行動を起すことはなかったが、それぞれのトップがそれぞれの立場を乗り越え、協力を約し協議会が設立された。その後、同年9月1日、一般社団法人「全国木造建設事業協会」(以下全木協)として、正式に法人設立となる。
4.キックオフ。
福島県では全建総連福島会館内に、応急仮設木造建設協議会福島現地事務局を立ち上げ事業説明会を開催、県内から106名が参加。その後、説明会を前後して800名以上の職人さん達が事業に参画する意思を表わす等、事業実施体制を構築していった。
4月26日には福島県の公募で、当協会の申請が選定を受ける。他方宮城県では申請が選定されるも、その後の発注は市町村マターと言う事になり、全く不透明な扱いとなる。岩手県においては選定から漏れる。選定条件として建設コストが占める配点割合が多く、安価な順から選定された様子である。応急仮設住宅は高すぎると言う意見があり、それら意見に配慮したのではないかと思われる。成程、平時において応急仮設住宅の建築費は高額に思えるが、100戸程度の応急仮設住宅建築で行った事業者の建築費などで判断してはならない。量と時間軸の2軸によって価格は大きく変動する。問題は価格でなく、それらの資金がいかに被災地に落ちるかと言う事である。建設にたずさわる多くの被災者にそれが確実に届くかと言う事である。
宮城県は「応急仮設住宅の建築協定」のスキームをくずさなかった。新たなスキームを作る事による混乱を避けたと思われる。その県の姿勢を批判する前に、プレ協は15年以上かけて47都道府県とこの協定を締結して来たが、その間地域住宅産業の担い手である私達は、何もして来なかった。災害に備えて締結された協定が、新規参入の障害になると言う皮肉な結果をもたらした。
その反省を踏まえ、全木協は発足以来現在までに27都県と協定締結し、その数を増やしている。(東日本大震災後の応急仮設木造住宅建設は、その後熊本でもその実績を積み上げ、点が線になったことにより、多くの県が全木協との協定に前向きになった)
今回私達が行った応急仮設住宅建設は単に建設行為ではなく、それに対応する為の組織作りであり、制度の中にきちんと組み込んでいくという結果を残すことの出来た社会運動であったと思っている。
5.作り手のこと
多くの職人さん達と様々な仕事をして来たが、その多くが高齢であり、ある現場では60才以上の職人さんの高所作業を禁じたら現場に100名以上いた職人さんの内20名位しか作業が出来なかった等、確実に大工職人不足の時代が来るのをこの目で見て痛感した。
今後予測される災害に対して、供給可能な応急仮設住宅は5万戸と想定されている。だがしかし、これは現在の力である。10年後20年後多くの職人達がリタイアした後は、到底この数を作る事は出来得まい。
200戸を建築する私たちが行った最も大きな現場で約200名の大工職が黙々と働く様は、見事であった。これまで培われてきた在来工法と言う技術は職人同士を繋ぐ共通言語であり、その言葉で繋がる職人文化は何時まで持つのだろうかと危惧を持った。
戦後の住宅難・住宅不足。人口流出入等々。旺盛な需要に対し一人親方が増加し、それまでの徒弟制度がくずれた。徒弟制度の全てが良かったとは言えまい。弟子の低賃金雇用や社会保証の不備等あげる事が出来る。だが少なくともそこでは、技術の伝承を行う等、職人を育てる環境があった。仲間がそこには居た。今回の様に数多くの職人達が、同じ現場で働く意味は大きい。出会い丁場の世界であり、それぞれの持つ技術やノウハウ交換の場でもある。なにより一人親方で失ってしまった「公」の意識。「公」は国や公共団体ばかりではなく、地域や仲間であり、その一員であると言う意識を取り戻せたのではないかと思っている。
日本人の歴史は常に災害と共に有り、私達は、いつもこの災害に好む好まざるとに関わらず鍛えられて来た。災害時において、木造の仮設住宅を被災地の職人達が中心となって、ふるさと復興の為に立ち上がることが出来た意義は大きく、今後も継承されることを期待している。
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