はじめに
ロシアについて、建築の背景にある文化や生活を、実際の体験を通して綴ってみたいと思う。建築を構成する部品に興味を持ち、日本にはないヨーロッパのデザイン素材に触れ、それらを輸入販売や調達代行する仕事をしている。知的財産を介した技術移転や連携交渉の実務にも従事している。欧州と日本を行き来する中で、ロシア市場を目指す日本企業に出会い、市場参入という難題に帯同し、多くのロシア企業を訪れ、ロシア人と出会うこととなった。
日本から長時間のフライトを経て空港に降り立つ。欧州の空港は、サインと簡単な英語表記に従えば難なく目的地にたどり着くことができる。モスクワも仕組みに大きな違いはない。ソ連時代とは異なり、施設は相当に近代化されている。都市のインフラ改修は物凄いスピードで進んでいて、訪れる度に変化を実感する。変化の速度は東京以上かもしれない。街の仕組みは西欧と似てきているが文字が違うので戸惑う。キリル文字に慣れるには少し時間がかかるので、深夜の到着はできれば避けたい。モスクワの人は自分達がヨーロッパの一部だと思っている。でも欧州各国でロシアは別という人は多い。ヨーロッパのようでヨーロッパでない。単なる文字の違いだけでない難解さがここにある。
空港から市内に向けエアポートエクスプレスに乗るまではまだいい。市内のメトロはやっかいだ。とにかく文字中心。読めることが前提にあり、外来者に対する親切心は、ほぼない。モスクワの地下鉄は美術館みたい、との噂は確かにそうで、建築意匠は相当に見応えがある。広告は一切なし(今はあるかもしれない)。地下鉄構内にはサインが極端に少ない。ここもキリル文字が読めることが前提。中島式のプラットフォームでどちらの列車が目的地に向かうのか、急いで飛び乗るとほぼ反対方向に向かっている。
モスクワを訪れる人のためにメトロについてもう少し。総延長は約400km、駅数は240、路線は2016年にモスクワ中央環状線 МЦКが開業し14となった。全体規模は東京と同程度だが、各線はより正確に放射状を描いている。土地が平坦で計画的に敷設できるこの国の土地事情を表している。茶色の環状線Кольцевая линияは大阪中央環状線と同じくらい。メトロで良く言われるのはエスカレータのスピード。深すぎる地下鉄駅に至る待ち時間を短くするために速度を上げている。どうしてこんなに深いのかは諸説あるが、シェルターのため、軍の施設の存在、秘密の地下都市など噂は堪えない。長いこと、スケールの大きさにこだわるのがロシア。サンクトペテルブルグ空港の動く歩道も長い。でも止まっていた。
ロシアの都市インフラについてわかりやすい空港での実例。カウンターには明らかにやる気のない窓口スタッフを理由に長い列ができる。一方で、自動チェックイン機は誰も使わない。機械が信じられないのか。やってみれば便利なのに、なかなか古い習慣から抜け出さない。こういう事は他にも沢山。夜行列車のチケットもネットですんなり手に入る。ホテル、公演、諸手続きなどスマホによる便利は他国と同様に拡大している。ITデバイド、世代間のギャップはかなり激しい。但し、ネットの便利は言葉がわかることが前提。役所のサイトはロシア語オンリー。よく使う単語と画像を頼りにある程度は探れるが限界がある。サービス精神、おことわりの程度は日本と同じぐらいではないか。
日本から空港を経て、ばたばた初日の夕食をロシア人と楽しむ。食事は素材が良いからか複雑な料理技術を使わないので日本人には良く馴染む(と思う)。モスクワでは日本食も浸透している。次の日の朝、窓から見る風景を見て想うのはこの国のモザイク具合。国土が広く様々な人や文化が同居する国であることを感じる。文化人類学的な分析はなくとも、モスクワの多様性と異質なものへの寛容さは来てみるとよくわかる。建物の統一感のなさ、強い自己主張、バラバラ感。時代の流れから来るものか、他人がすることに干渉しないからなのか。『モスクワは大きなムラだよ』とロシア人は言っていた。
モスクワでの一泊にスターリン建築を試してみてはどうだろう。著名な高層7棟のうちの2棟はホテルになっている。現在は、ホテルウクライナをラディソン、ホテルレニングラードはヒルトンが運営している。建築としての売りは遠景。風景の中でのインパクトは充分。あの建物に泊まれるという期待感は高い。確かにロシアらしさは感じる。但し、内観は期待しすぎない方が良い。レセプションホールは見応えがあるが、客室は普通。ヒルトンなので水準は下回らないが一般室は質素。きっとどこかに豪華な特別室がある。それがロシア。
最近、モスクワ市においてフルシチョフ住宅の大胆な建て替えが発表された。以前からもソ連時代の旧式集合住宅の更新は盛んで、官民の開発事業者が経済活性化の一役を担っている。モスクワの設計事務所ではそんな大型プロジェクトの集合住宅案を見る機会があった。1/2000のマスタープラン、建築コンセプトを示す模型。平面図は1/100で止まっている。街中には、過去の単調で味気ない建築への反動か、意図を読み取りにくい意匠が実に多い。どうしてこうなってしまうのか。それら難解建築に共通するのがディテールの甘さ。設計者の仕事が何処までで、どこから施行者に委ねているのか明確な区分はわからなかったが間取りや内部の生活に興味が薄いことは明らかだった。よっぽどプランに赤を入れたくなる。変なプランでも高値がついてしまう売り手市場。日本の緻密な空間設計が、ロシアの集合住宅をもっと住みやすくするのは間違いない。
モスクワらしい風景を一枚でと言われたらこの一枚を出したい。銅像と渋滞と巨大建築物。寒さが厳しいモスクワでの移動の手段には暖房のきいた自動車がありがたい。当局の道路整備が進み中心部への流入制限は始まっているが渋滞はなくならない。計算通りの平時はともかく、事故や規制の多さが車での移動困難を引き起こす。銅像はあらゆる所にある。多くの偉人の為にも道は曲がる。建築は大きい。よく言えば大胆、悪く言えば大雑把。路面は商業、下層は事務所、上層は住居と建物内でゾーニングしていることが敷地ブロックを大きくしている。用途をキメ打ちしない巨大複合建築は時代の変化に柔軟にも見える。
モスビルドMosbuildは年に1回開催されるこの国で最大の建築見本市。ミュンヘンのBAUやミラノのMadeExpoのような洗練はないがロシア建材市場を俯瞰するには最適の場だ。日本企業の出展は2016年実績でわずか1社。保守的な市場で参入に時間がかかり、非効率で躊躇するのは理解できるが、少なすぎる。ロシアの市場が欧州各国と違うのは自国に良いものがないと言い切っているところ。良品は海外から買う。日本製品の品質の高さはなんなくわかっているレベル。価値を実感していないので価格が問題になる。
モスクワは文化の裾野が広い。音楽、バレエ、映像、アートが身近にある。お金持ちに限られた楽しみではなく、多くの人に扉が開かれている。よって外国人も居心地よく楽しむことができる。西欧のオペラハウスのような息苦しさはない。子供連れファミリーも沢山いる。小さい頃から馴染んでいるので人材が育つ。若くして見つけた才能を伸ばすシステムは徹底していて練習の場は沢山ある。地下鉄に響くライブ音源のレベルの高さに足が止まる。
休日はきっちり休む。もちろん観光客向けに働いている人もいるが、ガツガツしていない。市民が楽しめる場所は充分に用意されている。冬が長い分、短い夏は屋外で楽しむ人が沢山いる。入場料のない遊園地。親子で行く博物館、居心地の良い場所を見つけるカップル、郊外の手作りのダーチャなどなど。それぞれが違った楽しみを見つけている
ロシアというとソ連とKGBの暗く怖いイメージが根強い。日本でロシアを大好きだと公言する人は私を含めて多くない。きっかけはたまたまだったが、行ってみて気づかされたのはロシア人が日本人を嫌いになる理由がないこと。以前、親日のフィンランド人は『フィンランドと日本の間には一つの国しかない』と言っていた。その話に対して『ロシアと日本は一つの土地を共有している』と言う。きっと悪意はない。これもロシアなのだと思う。
ソ連崩壊の1991年から26年、大きな体制変化からの年数を数えるとプロジェクトはまだまだ沢山ある。多くの設計士、建築家が必要とされている。モスクワでは多国籍の建築設計事務所が活躍している。でも日本から行く人は少ない。ロシアの上空を飛び越えヨーロッパを目指す。一つ付け加えたいとすれば、ロシアには欧州各国の底辺に流れる自国優位の差別はないこと。日本人は歓迎される。海外で建築を勉強する場の一つとしてロシアを候補にしてはどうだろう。現地の設計事務所と連携して、日露が協働で設計するのはどうだろう。
ロシアについて、断片的な印象を並べてみた。これらはわずかな体験からくる主観的なもの。専門書のような気づきやガイドブックのような公平性はない。日本で建築に携わっている人が少しでもロシアに興味を持ち活路を見出してほしいと願う。欧州各都市へのフライトでモスクワ経由を選ぶというのもある。まずは訪れてみて、何かを感じてほしい。
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