原子のスケールから新しい都市を構想した、高度経済成長時代を可視化する建築運動
<メタボリズム>
戦後日本の工業技術の発展と経済成長を糧としながら、気鋭の若手建築家らが西欧から輸入された近代建築を乗り越えようと結成した建築運動。都市スケールで増殖・展開する建築を提案することで未来社会を先取りし、世界中の建築家らに衝撃を与えた。
メタボリズムとは、もともと新陳代謝を意味する用語であるが、転じて人口の増大と技術の発展に呼応して更新される都市の成長を説く建築運動を意味するようになった。特に「中銀カプセルタワー」(黒川紀章設計、1972年)は中央の垂直コアに無数のカプセルが取り付いて新しい都市型居住を提案するもので、メタボリズムのアイコンとして広く知られている。
事の発端は1960年に東京で開催された「世界デザイン会議」にあり、事務局長である建築家の浅田孝を中心として、編集者の川添登、建築家の菊竹清訓、黒川紀章、大高正人、槇文彦、工業デザイナーの榮久庵憲司、グラフィックデザイナーの粟津清がメタボリズムのメンバーとして参加した。彼らは人間社会を原子から大星雲にいたる生成・発展の一過程と捉え、原子レベルの小さなスケールの現象が原爆となって都市を壊滅させたように、小さなスケールからヒントを得て建築や都市をつくることもできると考えた。会議当日に配布された冊子『METABOLISM/1960』には、「塔状都市」「海上都市」(菊竹)、「農村都市計画」(黒川)、「新宿ターミナル再開発計画」(大高+槇)が掲載されている。こうした都市ビジョンは、欧米からの借り物・輸入品であった近代建築を乗り越え、戦後日本の高度経済成長を可視化する役割を担い、大阪万博(1970年)、沖縄国際海洋博(1975年)、つくば科学万博(1982年)などで実現の機会が与えられた。
その後、メンバーらは各々独立した建築家・デザイナーとして世界的に活躍したが、デザイン手法や都市に関する思想が共有されたわけではない。同時代に活躍した磯崎新はメタボリストの一員として扱われることが多いものの、メタボリストの楽観的なテクノユートピア(科学技術がすべてを解決すると考える思想)とは一線を画し、未来都市が廃墟となった姿を描いた「再び廃墟となったヒロシマ」(1968)などの作品を残した。
なお、建築運動としてのメタボリズムの起源は、戦前の満州における都市計画、戦後の丹下研究室による都市研究、浅田による南極昭和基地にあり、植民地を失い人口過密を余儀なくされた敗戦後の日本が、テクノロジーを駆使してタブラ=ラサ(白紙)としての海上・空中・極地に生存圏を拡張しようとした軌跡に求められる。高度成長の終焉や技術的制約などからメタボリズムの構想は夢物語に終わったものも多いが、海外では開発著しいシンガポールの高層建築群などへの影響がみられる。
関連作品
中銀カプセルタワー(黒川紀章設計、1972)
銀座の繁華街に立つコンテナユニット型マンション。狭小敷地に計画されたため、ユニット内部はすべて工場でセットされ、トラックで搬入されたのち、ボルト締めにより短期間で取り付けられた。黒川の頭の中では、各々のユニットはいつでも取り外し可能で、週末にはユニットをトレーラーに乗せて富士山麓へ旅に出られるホモ・モーベンス(動く民)の家がイメージされていた。
こうしたライフスタイルの提案は当時の若者のみならず、政財界の実力者らを唸らせるほど社会的影響力を持ち、現代のノマドを先取りするものであった。
関連文献
– 『METABOLISM/1960』(世界デザイン会議での配布資料)1960年
– 黒川紀章『黒川紀章ノート 思索と創造の軌跡』同文書院、1994年
– 八束はじめ『メタボリズム・ネクサス』オーム社、2011年
– 『メタボリズムの未来都市展 戦後日本・今甦る復興の夢とビジョン』新建築社、2011年
– 豊川斎赫『群像としての丹下研究室』オーム社、2012年
イラストを手助けに、やや難解な概念を理解することで、さまざまな思考が張り巡らされてきた、建築の広くて深い知の世界に分け入るきっかけをつくりたいと思っています。それは「建築討論」に参加する第一歩になるでしょう!
順次、新しい記事を更新していく予定です。また学芸出版社により、2018年度の書籍化も計画中です。
「建築思想図鑑」の取り組みに、ぜひご注目下さい。
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