はじめに ―同時代性について―
「伝統産業の転用」をテーマとして行われた今回の座談会では、テーマに対する三者の活動において具体的な共通性や直接的な関連性は見られなかったが、懇親会でのやりとりも含め参加者の対話を観察していると、三者がその地域で活動するに至るまでのプロセスやモチベーションにおいて、通ずるものがあることが分かった。常滑を拠点とする水野と信楽を拠点とする石野は、共にその地域の伝統的産業である窯業を生業とする家系に生まれ、大学進学を機に地元を離れ東京他での修業時代をそれぞれに経て、家業に関わり合いをもつ形で現在活動拠点とする地元に戻った。有松を拠点とする浅野は兵庫県生まれだが、有松が開拓された当初より関係が深い隣町の鳴海で小学校から高校時代を過ごし、同じく大学進学を機に地元を離れるも、大学院卒業と同時に地域の伝統産業である有松絞りとの関わりを通して、現在活動拠点とする地元へと戻った。
今回の座談会で司会を務めた辻も活動の拠点とする浜松に生まれ、大学進学を機に地元を離れるも大学院卒業前後から浜松中心市街地で設計活動を開始しており、そのプロセスは三者と共通する点があるといえる。加えて、座談会メンバー全員が1980年代の生まれで、各地域で同時代に育ち、ほぼ同時期に建築を学んだ。筆者も現在活動拠点とする豊橋で生まれ、大学で建築を学ぶために上京し、現在の職に就くと同時に地元へと戻ってきた。座談会ではこのあたりの確認はなされず、言葉としてそれが発せられることはなかったものの、同席した者の多くが辻の企画した本会記念事業「パラレル・プロジェクションズ」に参加していたからか、同時代的な空気感と共に終始対話がなされた。
転用に対するモチベーション ―「伝統」に対する解釈と引き継ぎ方の違い-
この座談会で扱われた「伝統」は、1950年代に丹下健三らが繰り広げた「伝統論争」のような国家を主体とする気負ったものではなく、地域の伝統産業との関わり合いを通して体現される個人を主体とした「伝統」であった。それ故に、座談会では「伝統産業の転用」における建築的概念を一義的に見出すというよりは、個々人の活動紹介から明らかになったそれぞれの「伝統」に対する相互理解のための議論が中心に行われた。その詳細は座談会の記事に委ねるとして、ここではその概略とそこでの議論に対する筆者の理解について述べたい。
常滑・信楽は共に中世から続く窯業を現代まで伝える地域であるが、常滑の水野と信楽の石野がそれぞれ関わる「伝統」の質や意味は異なる。石野が引き継がんとする「伝統」即ち「明山窯」は、創業1600年頃で400年近く信楽焼と苦楽を共にしてきた歴史を持つ文字通りの伝統産業である。一方、水野が引き継がんとする「伝統」即ち「水野製陶園」は、地域の伝統産業の窯業を背景としているものの、満州から帰還した水野の祖父が戦後すぐに創業したタイル・煉瓦を製造する工場で、実質的には完全に工業化された近代産業であった。
座談会に先立って行われた「水野製陶園」の見学の際に、自社工場内で原料である粘土や釉薬から焼成までを一貫製造できることを知った石野から発せられた「全部、ここで出来るんですね」という言葉が印象的だった。信楽では中世以来、窯元、職人、問屋など産地を構成する人々によって地域が成り立っており、「明山窯」のような窯元を中心とする分業制の産業構造とコミュニティが密接に関連している。信楽でも近世から近代、現代へと至るまでに大量生産化が確立され、製造される大型陶器の種類も火鉢や植木鉢と需要に応じてその都度変化したが、その間も地域の家内工業的な産業構造は維持されてきた。石野は現代に至るまで継続された地域の家内工業的な文脈を生かしながら、このままでは衰退していきかねない地域の伝統産業とコミュニティを、建築的な視点を孕みつつ編集者的な立ち位置から魅力的に再編していた。
常滑の窯業は近代から現在に至るまでに工業化が行われ、海外へも積極的に輸出された近代土管を主力製品として急速に発展し、明治末年ころからタイルを中心とする建築陶器の生産が開始された。水野はこの常滑で生産される建築陶器の新たな価値の紹介と可能性の開拓に強い関心を持っており、祖父から受け継いだ膨大な研究成果とその魂をもとに「水野製陶園ラボ」の活動を展開していた。自らも建築家として自作を発表する立場にありながら、建築陶器の魅力をより多くの建築家と共有するために、それを全面に押し出した使用を控えていた。先達への敬愛の念から既存塀としてタイルが残されたり、B品の透水性煉瓦が外構にさりげなく用いられたりすることはあっても、建築陶器が自身の作風として固定化しないよう注意している点に水野の立ち位置が最もよく表れる。水野と石野は両者とも地域の伝統産業である窯業をベースに活動を行っているものの、このような引き継がんとする「伝統」の質の違いや引き継ぎ方の違いが、それぞれの活動内容の特徴として現れていた。
有松は江戸時代に尾張藩が切り開いた東海道沿いの地域で、農作地が少なかったため新たな産業として有松絞りが興された。有松は東海道の宿場町であるものの、先に開拓された鳴海宿が近かったため、「有松絞り」を製造販売する商工業の町として賑わってきた背景をもつ。近隣の三河や伊勢などから木綿を仕入れ、阿波から仕入れた藍で染めた「有松絞り」は尾張藩の特産品として保護され、北斎や広重の浮世絵にも描かれるほどの名産品となった。即ち、「有松絞り」はその成り立ちからして観光と共に発展してきた伝統産業であるといえる。この「伝統」と浅野の関わりは、「有松絞り」を服飾制作のテーマとして扱った学友のサーベイへの付き添いから始まった。付き添いとしてスタートしたものの、デザインリサーチャーとしての性分からか「有松絞り」の魅力や課題解決方法の追求にのめり込んでいき、結果として地域の課題解決にも関わるようになった、という印象を受けた。
座談会に先立って行われた有松の街並み見学、新旧それぞれの商店の見学において浅野の立ち振る舞いや地域の人々とのコミュニケーションに接し、有松における浅野のキャラクターと存在意義の大きさを垣間見た。「有松絞り」も職人による分業制で成り立ってきた産業であるが、浅野はデザインリサーチャーとして職人から職人へと引き継がれていく製造工程とその技術を詳細にリサーチしながら、同時にそうした産業構造が育んだ人間関係や地域の生活文化を観察していた。興味深かったのは、浅野が新しいテクノロジーを用いたデザインやファブリケーション方法に関心を持っていたことで、生成技法の複雑さから近代になっても機械で再現できなかった絞り模様のデジタルファブリケーション化へのチャレンジを積極的に行っていた点であった。浅野はこうしデザインリサーチャーとしての活動を通して地域の人々と積極的に対話しながら、有松の「伝統」の価値を新しい技術やメディアを用いながら外部へと発信し、地域の産業やコミュニティを活性化させ、街並みの保存までをも行っていくか考えていた。こうした浅野の伝統産業の転用に留まらない活動は、本人が望もうが望むまいが地域の観光復興活動と関連しはじめており、観光産業と一体で発展・存続してきた有松の「伝統」を引き継がんとする際の宿命なのではないかと感じだ。行政を含めた複数のプレーヤーが関わる地域であるため制約も多いようだが、そうした全体のムーブメントと融和していくことで、浅野なりの「伝統」の引き継ぎ方をより強固なものにしていって欲しいと思った。
三遠地方(三河・遠州)との比較 ―産業構造と地域コミュニティの持続性-
三河で育った筆者には(おそらく遠州育ちの辻も)、三者の活動から常滑・信楽・有松における産業構造と地域コミュニティの持続性を感じ取れた点が、とても興味深かった。この座談会企画の大枠として中部地方(正確には信楽は近畿地方だが)の建築や建築的活動について紹介するというコンセプトがあり、それに基づいて本座談会の企画構成が組まれている。そのため、ここでは中部地方における現状に対する一考として、司会の辻と筆者が生まれ育った三遠地方に起こった都市現象の考察から産業構造と地域コミュニティの持続性に関して述べたい。
日米繊維交渉やオイルショックを境に、三遠地方では近世の頃から盛んであった綿紡績、近代以降機械化も行われた羊毛紡や生糸の生産が曲がり角を迎え、1970年代以降は繊維から自動車への劇的な産業転換が行われた。自動車産業をはじめとする製造業が主要産業であった時代に育った筆者は、1990年の出入国管理法改正を機に出稼ぎを目的とするブルーカラーの日系ブラジル人が職を得るために三遠地方に集積しはじめ、その結果、突如として日系ブラジル人コミュニティが形成されるという現象を経験している。それは西沢大良が「現代都市のための9か条」で述べた「新型スラム」のようなコミュニティであり、公営団地に日系ブラジル人が集まって居住しはじめ日常的な摩擦から日本人住民が転居していき、結果として団地一棟まるまる日系ブラジル人コミュニティへと置き換わる、というような発生の仕方だった。団地に限らず、戦前は農家だった地主が所有する20戸程度の中層賃貸集合住宅でも似たような現象が起こっていた。日系ブラジル人が多く住む集合住宅に工場直行のシャトルバスが乗り付けられ、朝方は夜勤労働者が降車し日勤労働者が乗車、夕方はその逆の乗降りが行われ、郊外にある工場との往復が毎日繰り返されるという通勤システムも整備されていた。正確性に欠けるが、筆者の記憶ではそこでの乗降人員は通常の居住者数を超えており、職住においてタイムシェアが行われていたのではないかと想像する。このような当時の労働力不足を背景に建築単体で発生したこの現象は、1990年代の三遠地方に起こった共通の都市問題で、この地方の産業構造がそれを必要とした結果であった。この突如発生した日系ブラジル人コミュニティは、常滑・信楽・有松のような産業構造と一体となって長期的に形成された地域コミュニティとは全く異なり、郊外の工場と居住用の建築単体で成立可能な、近代産業構造が即時的に生み出し得てしまうコミュニティであった。
1990年代を通して進んでいった日系ブラジル人コミュニティの拡大とともに、その周辺には生活必需品を扱う日系ブラジル人向けの店舗が徐々に開業されていった。2000年頃には長引く不況と郊外大型店舗の影響により立ち行かなくなった個人経営の食品スーパーが、日系ブラジル人オーナーに買い取られ、ブラジルから輸入された食品類を扱うスーパーとして経営が再開された。このように、地域との摩擦は絶えなかったものの建築単体で成立し得ていたコミュニティは、2000年代には集落的な広がりをもって三遠地方に根付き始め、永住資格取得者や帰化する者が急増し定住化が進んでいた。当時、このまま長期的に日系ブラジル人コミュニティが持続していくと思われていたが、近年は事情が異なってきている。2008年のリーマンショック以降、全国で約15万人の在日ブラジル人が帰国し、ピーク時の2007年頃には全国に32万人近くもいた日系ブラジル人は2017年現在では半数程度になっている。三遠地方も例外ではなく、筆者が目にしていた先の中層賃貸集合住宅は近年取り壊され、その跡地はコンビニエンスストアになった。三遠地方に起こったこの一連の都市現象は、出入国管理法改正や世界経済の影響から日系ブラジル人コミュニティの問題として顕在化したが、本質的にはこの地方の産業構造が潜在的に抱える問題であると考えられる。1970年以降の経済的発展や人口増加からすると、世界的企業や工業団地を多く抱える浜松・豊橋は、近代化に伴って発展した近代都市としてうまくいっているように見える。加えて、他地域に比べ少子高齢化や税収減といった、全国の至る所で叫ばれるシュリンクする社会が直面する課題も他地域ほど深刻化しておらず、目に見えて困るような事態には今のところ陥っていない。それ故に地域全体から危機感が感じられないが、建築単体とはいえ近代産業によって生み出されたコミュニティが20年程度で突然消滅した事態を考えると、近代産業を基盤とするこの地域の都市そのものの危うさが浮き彫りとなる。今回の場合、特に信楽に見られるが仮にシュリンクする社会の問題が顕在化していようとも、常滑・信楽・有松のような伝統産業を基盤とする地域のコミュニティからは安定的な持続性を感じとることができるが、近代産業を基盤とする浜松・豊橋からそうした持続性を感じるとることは難しい。座談会でのやり取りにあるように、水野と石野がシュリンクするする社会を悲観することなく捉えることが出来ているのは、常滑・信楽に他地域にはない持続性が存在していることも関係しているのではないだろうか。
おわりに ―圏域の概念と持続性からの学び―
座談会において浅野から常滑・信楽・有松を比較して「有松は他の二つと比べて小さなエリアだから」という発言があった。現在の行政区域に慣れてしまった現代人的感覚からすると、有松は名古屋という行政都市の一地区であり、確かに表象される空間イメージは常滑、信楽(平成の大合併以降は甲賀市)に比べ小さい。そのため、この発言に疑問を覚える道理はないが、三者の活動に考えを巡らせながら議論を聞いた際に、次のような不思議な違和感と考えが浮かんだ。地域の伝統産業との関わり合いから個々人がどのようにそれぞれの地域の「伝統」を解釈しているのか、それをどう引き継ごうとしているのかという観点で三者を見た際、地理的な広がりよりも個人の活動から体現される空間的広がりに意識が向く。加えて、産業構造とそれが形成するコミュニティについて考えてみると、行政区域のような近代都市計画的な圏域よりも人々の結びつきから形成される集落のような自然発生的な圏域に対する関心の方が優位的になる。常滑・信楽・有松における三者の「伝統産業の転用」に係る活動、即ち「伝統」の引き継ぎ方から垣間見られた産業構造と地域コミュニティの持続性について考えた際、我々が慣れ親しんでいる近代都市的な圏域からそこで起こる事象を判断するよりも集落のような自然発生的な圏域の概念でそれらを見直した方が、現代の都市現象を正確に捉えられるのではないか。近代の産業構造を基盤とする近代都市的な概念よりも、地域の伝統産業として残された家内工業的な産業構造が形成する集落的な概念やそれがもつ安定的な持続性を如何に都市に内包させていくかということを手掛かりに、都市形態を再編していかなければならないのではないかという思いを抱いた座談会であった。
最近のコメント