書評/伊東豊雄 『日本語の建築 空間にひらがなの流動感を生む』 PHP新書 2016年11月29日
伊東豊雄はどこへ行く?
Where Toyo Ito is going?

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台中国家歌劇院が10年がかりで竣工した。仙台で開催された第11回アジアの建築交流国際シンポジウムISAIA(International Symposium on Architectural Interchange in Asia)(東北大学、2016年9月20日~23日)の基調講演の中で本人自らの説明を聞いた。現場の大変さを聞いていたのであるが、よくぞ竣工にこぎつけたと思う。この見たことのない傑作は21世紀の名建築として歴史に残ることであろう。
東日本大震災後、被災地に何度も通って「みんなの家」を被災地に建てた。そして、2012年開催の第13回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展に、陸前高田の「みんなの家」を出展、金獅子賞を受けた。そして、プリツカー賞も受賞した(2013年)。さらに、新国立競技場の設計競技については結果的に3度挑戦し敗れた。この間、日本の建築界の中心にいて、その一挙手一投足が注目される建築家が伊東豊雄である。
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そんな伊東豊雄が2016年に立て続けに新書を出した。本書と『「建築」で社会を変える』(集英社新書、2016年9月)である。東日本大震災直後の『あの日からの建築』(集英社新書、2012年10月)と合わせると、立て続けに3冊の新書が出版されたことになる。いずれも、インタビューをもとに、編集者、企画者がまとめるスタイルである。本書のタイトル、「日本語の建築」「空間にひらがなの流動感を生む」という方向性は必ずしも詳述されるわけではない。従って、伊東豊雄のこれまでの『風の変容体』『透層する建築』のような建築論を期待して読むと裏切られるが、この一連の新書から、伊東豊雄がこの間何をどう考えて、何をしてきたのか、建築家としてのある着地点に向かいつつあることを知ることができる。
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「壁、壁、壁…。前を向いても後ろを振り返っても、右も左も壁ばかり。渡る世間は壁ばかりです。」と本書は書きだされる。壁とは、例えば、巨大な防潮堤で、「安全・安心」の壁が実は「管理」という壁と同義語で、お上が自分の管理責任を問われるときに必ず持ち出されるのが「安全・安心」の壁だという。本書は、プロジェクト毎に出会う「壁」についての物語である。
まず興味深いのは、第一章「新国立劇場三連敗」である。3連敗とは、最初のプロポーザルコンペで負けたこと、また、ザハ案への反対運動の過程で自ら提案した改修案が採用されなかったこと、さらにデザイン・ビルド方式に応募(B案)で敗れたこと、の3連敗である。
新国立競技場をめぐる問題が、建築界で深く受け止めるべき問題を孕んでいることはこの間様々な場所で議論されてきた。このWEB版『建築討論』でもまず「デザイン・ビルド方式の問題」http://touron.aij.or.jp/2016/04/1827、そして「契約方式の問題」http://touron.aij.or.jp/2016/09/2643をめぐって議論がなされている。設計施工の分離を前提とした建築家の基盤が大きく揺らぎ、設計者、施工者、そしてクライアントの関係が複雑に変化し多様化していることが確認される。ただ、建築の契約発注について、また、建築家が果たすべき役割について、必ずしも建築界が一致する方向性は必ずしも見いだせていない。
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新国立競技場のコンペについては、歴史的、構造的な問題が露呈しているといっていい。別の場所でじっくり議論したいと思うが、しかしそれにしても、何故、伊東豊雄はデザイン・ビルドのコンペに応募したのか。本書を読んで初めて知ったのであるが、様々な柵(しがらみ)の中で頼み込まれたのではなく(A案一案だけではコンペが成立しないから)、コンペへの応募は伊東豊雄の方からもちかけたのだという。というのも、『あの日からの建築』において、あるいは本書においても、東京(都市)から地方へ、あるいは「新しさ」から「みんなの家」へ、自らの建築家としての方向を大きく転換したと思われているからである。その伊東が、東京のど真ん中の国家的プロジェクトに自ら挑む構図がしっくりこないのである。
伊東豊雄は、自らの案がすぐれていると、公表された点数の問題に絞って疑問を提示するが、新国立競技場のコンペの問題は点数制による評価方法を問う以前にある。コンペのフレームすなわち敷かれたレールがそもそも問題であって、敷かれたルールに乗って戦って負けたということである。結果として、ルールに従って選定しましたというアリバイづくりに参加することになった。「壁」をカムフラージュし、補強する役割である。
結局、何故、3回目の戦いに参加したのかについては、「建築に携わろうと思ったら、大手の組織系事務所に入るしかない」状況の中で「個人の建築家としてどこまでできるのかチャレンジしてみたいと思った「若い人に知ってほしかった」」というだけである。
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この間の伊東豊雄の「転向」をめぐっては飯島洋一『「らしい」建築批判』(青土社、2014年)の厳しい批判があり、この書評欄でもとりあげた(「21世紀の資本と未来」https://www.aij.or.jp/jpn/touron/4gou/syohyou001.html)。繰り返しは控えたいが、飯島は、東日本大震災以前と以後の伊東豊雄の「転向」、「自己批判」、すなわち、「個の表現」「作品」としての建築を否定し「社会性」を重視する方向をよしとしながら、その「作品主義」「ブランド建築家」の本質は変わらないと批判する。そして、コンペに参加しながら改修案を提出した伊東の態度も一貫性に欠けると批判する。飯島に言わせれば、白紙撤回後のデザイン・ビルド・コンペに参加することなどもっての他ということであろう。
「仙台メディアテーク」までの伊東豊雄の建築論の展開をめぐっては、『建築少年たちの夢 現代建築水滸伝』(彰国社、2011年)で論じたが(「第三章 かたちの永久革命 伊東豊雄」)、確かに、状況に応じて状況と渡り合うその言説にはブレがある。それに付け加えることはないが、しかしそれにしても、東日本大震災後の「みんなの家」とそれ以前の作品群との間のブレ、落差は、それ以前のブレに比べて極めて大きい。ひたすら「新しいかたち」を求めてきた(「かたちの永久革命」)伊東がコミュニティ・ベースの「みんなの家」を提案するのである。
それに既存施設の改修案を提示しながらデザイン・ビルドの新築案に応募するのは明らかに首尾一貫しない。伊東に言わせれば、条件が違うのだから案が異なるのは当然ということであろうが、飯島ならずとも、戸惑わざるを得ない。
しかも、『あの日からの建築』で語った新たな建築の方向については、結局「みんなの家」しかつくれなかったと伊東豊雄はいう(第二章「管理」と「経済」の高く厚い壁 東日本大震災と「みんなの家」)。この言い方もいささか気になる。「今後、被災各地の復興は困難をきわめるだろう。安全で美しい街が五年十年で実現するとは到底思われない。しかし東京のような近代都市の向こう側に見えてくる未来の街の萌芽は確実にここにある。」と書いていたのである。釜石復興プロジェクトは挫折したという。しかし、一体何をつくりたかったのか。『「建築」で日本を変える』と言うのである。
結局、「管理」と「経済」を大きな二つの壁とする近代主義に凝り固まった思考と態度に拒まれたというけれど、何が阻まれたのか。
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その昔、「近代の呪縛に放て」という『建築文化』の連載シリーズ(1975~77年)のコア・スタッフとして毎月のように集まっていた頃を思い出す。伊東豊雄をトップに,長尾重武[1]、富永譲[2]、北原理雄[3]、八束はじめ[4]、布野修司というのがメンバーであった。「近代の呪縛に放て」というのは田尻裕彦[5]編集長の命名であったが,近代建築批判の課題は広く共有されていた。「アルミの家」によってデビューはしていたけれど、その時点で「中野本町の家」はまだ実現はしていない。近代建築批判をどう建築表現として展開するのか、口角泡を飛ばして議論したものである。結局、振出しに戻ったということなのか?出発点にとどまっているだけなのか、何ができて何ができなかったのか。
伊東豊雄は、第三章「「時代」から「場所」へ」で、これまでの自らの軌跡を素直に振り返っている。「社会に背をむけた1970年代」から「消費の海に浸らずして新しい建築はない」といっていた時代へ、そして、「八代博物館・未来の森ミュージアム」以降、公共建築の展開がある。建築家として自作を語るというより、時代の流れとの対応が語られる。インタビュアーとの応答がベースになっているからであるが、もともと伊東豊雄は「状況」に敏感な建築家である。自ら振り返って、はっきりと「バブルの時代の東京が一番好きでした」ともいっている。そして「仙台メディアテーク」以降は、地域や場所に密着した建築を強く意識するようになるのである。

1970年代初頭、近代建築批判の流れはいくつかの方向に向かう。わかりやすいのは、近代建築の理念や規範が排除してきたもの、否定してきたものを復権することである。装飾や様式、自然やエコロジー、ヴァナキュラーなものやポップなもの、廃棄物やキッチュ、地域や伝統などが次々と対置された。そして、それぞれがデザインの問題と競われることにおいてポストモダンの建築として一括されることになる。様々な記号やイコンや装飾が浮遊するポストモダンの建築状況は、あらゆる差異が無差異化され同一平面上に並べられることによって消費される消費社会の神話の構造と照応していた。そうした中で、常に何か新しさを求めてきたのが伊東豊雄である。だから、装飾や様式、自然やエコロジー、ヴァナキュラーなものやポップなもの、廃棄物やキッチュ、地域や伝統を対置する構えはなかった。その伊東が「地域」や「場所」へ向かうというのである。
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鍵となりそうなのが「日本語の建築」であり、「ひらがなの流動感」だという。もちろん、「日本の伝統的な建築様式に戻ればいいと考えているわけではない」。「歴史や風土を踏まえたうえで、現代のテクノロジーを駆使して未来を見据えた建築のあり様をみつけ出したい」「アジアの建築家として、日本人の建築家として、一つ見えてくる道筋の先に、「日本語の空間」「日本語の建築」というあり方が存在するのではないかと考えるようになった」(序章)というのである。
「日本語の建築」というのは本書で突き詰められているわけではない。枕としてひかれているのは水村美苗『日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』(筑摩書房、2008年)である。これについては、「建築討論」02号「日本建築の滅びる時」宇野求・布野修司対談https://www.aij.or.jp/jpn/touron/2gou/jihyou003.html で話題にしている)が、世界語、国際語としての英語と日本語、近代建築と日本建築という単純なディコトミーに基づいて日本を対置するというのだとすれば、よくある日本回帰のパターンである。辛うじて理解するのは、「壁」によって空間を区切ってしまうのではなく、空間の連続性を保ちながら、空間に場所の違いを生み出す、壁を建てない、区切られた部屋を極力つくらない、自然の中にいるような建築、具体的には「せんだいメディアテーク」の「チューブ」や「みんなの森ぎふメディアコスモス」の「グルーブ」、振り返れば「中野本町の家」のような空間がその方向だという。
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建築の壁と「渡る世間は壁ばかり」という「壁」はもちろん違う。壁を取っ払えばいい、というわけではないだろう。近代建築批判が単にデザインの問題ではないことは最初からわかりきったことである。この「日本語の建築」は社会的な「壁」の問題にどう重なるのか。
『「建築」で日本を変える』のあとがきに書かれているけれど、伊東豊雄は、2014年の秋から4カ月間病院生活を送っている[6]。この4カ月の膨大な時間にこれまでにつくってきた建築のこと、そしてこれからの自分の人生の過ごし方について考えたのだという。
結局は、自らの生き方として示すしかない、ということではないか。「作品」とか「個」の表現とかを突き抜けた地平で、依拠する場所を決めたということである。そうだとすれば、伊東豊雄は変わった、あるいは着地点を見出したのである。
最終的に行きつきつつあるのは大三島である。残された建築人生を大三島での活動に懸けたいという。伊東建築塾も大三島で行われる。大三島には土地も買った。ル・コルビュジェが晩年、モナコ近くの海辺に小屋を建て、のんびり裸で絵をかきながら過ごしたというエピソードにわが身も重ねるともいう。
そうした中で、熊本大地震が起こった(2016年4月)。熊本アートポリスのコミッショナーとしては動かざるを得ない。大三島を拠点としながらもまだまだ世界中を股にかけざるを得ないかもしれない。
しかしそれにしても、伊東豊雄のように「壁」と格闘する建築家が群雄割拠しないといけないのではないか。

  1. 1944年東京都生まれ。東京大学工学部建築学科卒業、東京大学大学院博士課程単位取得満期退学、工学博士(東京大学)。72~83年東京大学助手。77~78年イタリア政府給費留学生としてローマ大学に留学。’83~88年東北工業大学助教授。武蔵野美術大学教授、学長。作品に「国分寺の家」(1976年)「天日向家船」(1996年)ほか。著書に『ミケランジェロのローマ』(1988年)『ローマ・バロックの劇場都市』(1993年)『建築家レオナルド・ダ・ヴィンチ』(1994年)『ローマ―イメージの中の永遠の都』(1997年)ほか。詩集に『きみといた朝』(2000年)『四季・四時』(2002年)『愛にかんする季節のソネット』(2002年)。

  2. 1943年 台北市生まれ。東京大学工学部建築学科卒業。1967年~1972年菊竹清訓建築設計事務所。1972年富永讓+フォルムシステム設計研究所設立。法政大学名誉教授。「ひらたタウンセンター」で日本建築学会賞(2003年)。著作に『現代建築 空間と方法』(1986年)『近代建築の空間再読』(1986年)『ル・コルビュジエ 建築の詩』(2003年)『現代建築解体新書』(2007年)ほか。

  3. 1947年横浜生まれ。1970年東京大学工学部都市工学科卒業。1977年東京大学大学院工学系研究科博士課程修了。名古屋大学工学部助手、三重大学工学部助教授を経て1990年千葉大学工学部教授。千葉大学名誉教授。『都市設計』(「新建築学大系」一七、共著、彰国社、1983年)『公共空間の活用と賑わいまちづくり』(共著、学芸出版社、2007年)ほか。訳書に『アーバン・ゲーム』(M.ケンツレン)、『都市の景観』(G.カレン)ほか。

  4. 1948年山形県生まれ。建築家、建築批評家。1979年東京大学都市工学科博士課程中退、磯崎新アトリエ(担当作品ロスアンゼルス現代美術館、筑波センタービル等)を経て1985年UPM(Urban Project Machine)設立。1988年熊本アートポリスのディクレクター。芝浦工業大学教授、芝浦工業大学名誉教授。作品に「白石マルチメディアセンターアテネ」(1997年)「美里町文化交流センター「ひびき」」(2002年)ほか。著作に『逃走するバベル 建築・革命・消費』(1982年)『批評としての建築 現代建築の読みかた』(1985年)『近代建築のアポリア 転向建築論序説』(1986年)『ロシア・アヴァンギャルド建築』(1993年)『思想としての日本近代建築』(2005年)ほか。

  5. 1931年生まれ。早稲田大学文学部卒業。建築ジャーナリスト。1960年彰国社入社。『建築文化』編集担当、『施工』創刊編集長を経て、1970年『建築文化』編集長(企画室長の任期を挟んで82年まで)。著書に『この先の建築』『建築の向こう側』(2003年)ほか。

  6. 実は、丁度その期間に滋賀県新生美術館のコンペがあり、伊東さんが選考委員会に一度も出席できず、僕は審査委員長として2段階の公開ヒヤリング方式を実現するのに孤軍奮闘することになった。この公開ヒヤリングによるコンペ方式を僕は20年前から続けているのだが、新国立競技場も何故透明性の高いコンペ方式がとられなかったのか、その組み立てにそもそも疑念がある。点数制の問題も新生美術館でも当然問題になった。

布野修司

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