海外建築事情
都市の選択
Choices of the City

故郷であるバンコクに戻ってきて早5年が過ぎた。 この数年、バンコクの都市風景の変化は著しい。そこで本エッセイは、その都市の変化を体験する一証人として、ここ数年で起きた幾つかの出来事と、それらを巡って考えたことのレコードとしたい。

高さ314mの超高層ビル、MahaNakhonの屋上からバンコクを見る(筆者撮影)

高さ314mの超高層ビル、MahaNakhonの屋上からバンコクを見る(筆者撮影)

2つの災害

2011年の時点で、私は人生の半分近い時間を日本で過ごしていた。東日本大震災が起こったのは、ちょうど大学院の卒業式数日前で、今でもその日のことを鮮明に覚えている。同年5月、私は生まれ育った町、バンコクに戻ってきた。それからしばらくして、タイ史上一番深刻な洪水の一つが街を襲った。2つの災害は、自然災害であると同時に、ある意味人工的に引き起こされ、大都市のあり方と大きく関係しているという点において、共通していた。それらは、都市のあり方、建築のあり方、そして自然の接し方について、今なおわたしたちに多くの疑問を投げかけている。
この二つの災害は、その実質的に被害が発生するまでのスピードと、災害を受け止める人々の深刻さという点で、性質が大きく異なっていた。東日本大震災では、一瞬にして多くのひとの命が奪われた。テレビに映る、津波から走りながら避難する人々の姿は、未だ記憶に新しい。それに比べてタイの洪水は水がやってくるのも、水が引くのも大変ゆっくりだった。2-3週間、場所によっては2−3ヶ月間もの期間、水と生活をともにしなくてはならなかった。いろいろと困るけれど、しようがない。そんな状況だ。自然災害による経済損失額の大きさとしては、世界史上4位 [1]になるほど深刻な災害だったが、死亡者数、災害に対する恐怖感という点では、東日本大震災とは性質がまったく別のものだった。
2011年10月、バンコク北部にあるわたしの実家も避難地区と宣言された。避難地区に住んでいる多くの人たちと同様、私たちは焦って荷物を二階に運んだり、運べないものはプラスチッック袋やラップで覆ったりと、忙しかった。だがその後数日が経ち、1週間が経っても、なかなか水はやって来なかった。2週間を過ぎたあたりで、やっと水はやってきた。最初は排水溝から水が出て、一時間も経たないうちに家の前の道路は川と化した。当初、家に残ると心に決めていた家族も、ほとんど黒に近い水を見て避難を決め、荷物とともに大通りに出たときにはもうすでに水位はかなり高くなっていた。

2011年11月のバンコク(筆者撮影)

2011年11月のバンコク(筆者撮影)

その後、私は仕事のためにバンコクの中心部に移ったが(中心部は、政府が集中的に対策を施していたため、洪水は到達していなかった)、洪水が引くまでの間、避難地区に行くことも何回かあった。その都度、私は事態の重大さを実感したが、同時に決まって、微笑ましい風景にも遭遇したのをよく覚えている。タイムラインやニュースフィードには、政府への批判やボランティア活動の報告はもちろん流れてきたが、何より私の目を引いたのは、毎日欠かずに流れていた、人々が水に適応しようとする姿[2]を捉えた、即興的創造性が溢れていて、且つ思わず微笑んでしまうような画像たちだった。例えば、さまざまなものを改良して作られた船、水の安全チェックをしてくれる改良バスダック(感電する水だと光るようになっているもの)、水中を歩く改良靴など、今なお何度見ても、なかなか見飽きない。もちろんこれはこのスピードだからこそできることではあるけれど、この少しふざけているように見える現象の裏側にある、楽観的創造性、即興的適応性の備わった精神から、学べるものは多い。

ショッピングカートでできたウォークウェイ(バンコク、2011年11月) Photo:Joan Manuel Baliellas/AFP/Getty Images

ショッピングカートでできたウォークウェイ(バンコク、2011年11月)
Photo:Joan Manuel Baliellas/AFP/Getty Images

また、政府が頼りないからか、災害時のプライベートセクター、インフォーマルセクターの動きが素晴らしく、希望を覚えた。政府から洪水の情報が発表されるたびに、それを有志のデザイナーたちが非常にわかりやすくクリエイティブな動画[3]にして流していた。また避難地区の食品などの配給も、政府だけだと時間がかかってしまったり、遠いところに届かなかったりするのを改良しようと、有志がお寺やバイクの停留所(もちろんその時は船の停留所に化していたが)などを活用して、配給ネットワークをつくっていた。このような、インフォーマルセクターが独自のネットワークとマイクロスケールを活用して、うまくフォーマルなシステムに介入していく[4]ことは、大変現代的だと感じたし、個人的に大変興味が惹かれた。

めまぐるしい進化

バンコク都市圏公共交通機関基本計画の完成予想図 出典:Mass Rapid Transit Authority of Thailand

バンコク都市圏公共交通機関基本計画の完成予想図
出典:Mass Rapid Transit Authority of Thailand

2010年に、バンコク都市圏公共交通機関基本計画、M-Map (Mass Transit Master Plan in the Bangkok Metropolitan Region)が国会で承認され[5]、高架鉄道、地下鉄の建設速度が一段と速くなった。基本計画は、主幹線8路線(内、2路線は在来線)と、ローカル幹線4路線と空港線からなり、2016年6月の時点で、新しく建設された-路線を含む5つの路線が運営されており、合計100キロメートル以上をカバーした。また、発表によれば、現在工事中のものも含め、2022年までには268.9キロが、バンコクが成都250歳年を迎える2032年までには、合計500キロ以上の電車が完成する予定である。そのうち半分以上はスカイトレイン(BTS)と呼ばれる高架式で、それに伴い、多くのスカイウォークも建設される。すでに中心地では、空飛ぶウォークウェイが飛び交い、既存の建物も新築の建物もこの新しいプラットホームに応えようと、新たな人口地形を形成し始めている。

中心地ではすでにコンクリートジャングル(2016年)(筆者撮影)

中心地ではすでにコンクリートジャングル(2016年)(筆者撮影)

また、それに比して、大型ショッピングセンターやコミュニティモールも、大々的にオープン、リニューアルオープンされ続けている。特に最近では、スカイトレインの駅との関係をうまく活用したものが出始めた。例えば、ザ・モール・グループによる、2015年リニューアオープンされたエムポリアム(Emporium)と、新規オープンの3つの分棟からなるエムクアーティア(EmQuartier)。両者は共に、BTSプロンポン駅と2階・駅の改札階で直結し、駅を挟んで向かい合って建っている。また、直結と言っても、その方法はかなり大胆かつ壮大。駅直結の入り口は、計4つの建物に囲まれた巨大な広場になっており、隣駅まで続くスカイウォークとスムーズに繋がっている。また、ザ・モール・グループは、エムポリアム隣の公園を挟んでエムスフィア(EmSphere)という高級ショッピングセンターを建設する予定であり、駅だけでなく、公園をもこの巨大ションピングセンター群の一部にする計画だ。これは事業としては、最小限な投資で、最大限な効果が得られ、大変賢く、出来る空間もたしかに面白いとは思うが、同時に、大手企業がこんな大大的に、公共空間をある意味私物化するということに対しては、少し疑問が残る。

EmQuartierの屋上庭園から、広場と向かいのEmporiumを見る(筆者撮影)

EmQuartierの屋上庭園から、広場と向かいのEmporiumを見る(筆者撮影)

一方で、公共空間を建物内に延長する小規模な地域密着型の商業施設も出始めている。2016年始めにオープンされた、ザ・コモンズでは、外部空間を含む5,000平米近い床面積のうち、なんと、店舗面積は40%[6]しかなく、他の面積を、前面道路の公共空間と繋げ、共有部分とする潔さが見られる。設計はDepartment of Architecture というタイのアトリエ系事務所である。高級住宅地かつ流行の発信地であるトンロー通りから、曲がって脇道に入り、少し進むと開放的で大きな階段が目に入る。この地域は、年々建築密度が増加し、緑も、公共空間も減少する中、トンロー育ちのオーナーはこの施設を地域の”みんなの裏庭に”したいという思いで、この建物を作った。人気のレストランや品質の高い食品店が集められ、訪れた人は好きなお店から好きなものを買って、その大階段を含むコモンスペースで食べられるようになっている。

ザ・コモンズ、正面から奥まで続く大階段 Photo courtesy of Department of Architecture co.,ltd. Photo: W Workspace

ザ・コモンズ、正面から奥まで続く大階段
Photo courtesy of Department of Architecture co.,ltd.
Photo: W Workspace

道路から延長された大階段は、下層階から最上階まで、建物全体をつなげながら新たな垂直のコモンスペースをつくりあげている。ところどころ、席やテーブル、さらには手洗い用のシンクが散らばめられ、天井には工業用の巨大な換気ファンがあり、片方は暑い空気が上に流れ出るようにと、もう片方は建物の下層階に風を届けるようにと、回っている。ここでは、いつ行ってもご飯やコーヒーと共におしゃべりする人たちの姿がある。そして時にそこは、ライブの観客席となり、また市場ともなる。まさにスペイン広場の進化形であり、また、現代の商業施設において、熱帯国に相応しい、公共空間の新たなあり方を、鮮明に示しているように思う。

ザ・コモンズ、奥から正面をみる Photo courtesy of Department of Architecture co.,ltd. Photo: Ketsiree Wongwan

ザ・コモンズ、奥から正面をみる
Photo courtesy of Department of Architecture co.,ltd.
Photo: Ketsiree Wongwan

消される記憶

オンアン運河沿いを占拠していたサパーンレク市場 出典:Google Street View(2014年)

オンアン運河沿いを占拠していたサパーンレク市場
出典:Google Street View(2014年)

新たな大型商業施設が次々とオープンされるなか、同時に進行するのは、バンコク各地で行われる ’地区整備’ の取り締まりである。2014年の軍事政権になって以降、多くの場所で取り締まりが実施された。その中身は、歩道上の局所的な違法営業屋台の撤去から、広大なエリアをなす不法占拠コミュニティの除却までと幅広い。当取り締まりが宣言されたのは、軍事政権に始まったものではなかったが、ただ、毎度住民や市民から反対にあい、その宣言にも関わらずなかなか実施されてこなかった。

サパーンレク市場、解体中 出典:Bangkok Metropolitan Administration

サパーンレク市場、解体中
出典:Bangkok Metropolitan Administration

サパーンレク市場、解体後  出典:Bangkok Metropolitan Administration

サパーンレク市場、解体後 
出典:Bangkok Metropolitan Administration

しかし、今回の軍事政権は、まず路上の違法営業屋台一掃に目をつけ、2015年の旧市街クロントム市場の撤去を始め、すでに多くの箇所に対して取締りを実施してきた。サパーンレク市場の一掃、国内最大規模の花市場であるパーククローンの整備、中心地のサイアムやシーロムなどの歩道上の違法営業屋台一掃など、その勢いは凄まじく、反対意見やプロテストなどまったく気にならない様子で、大変軍事政権らしい。

歩道を占拠していたプラトゥーナム市場 出典:Google Street View(2014年)

歩道を占拠していたプラトゥーナム市場
出典:Google Street View(2014年)

’社会で立場がないというのはどういうことかを知りたかったら、バンコクの歩道を歩いてみればよい’ というタイ式ジョークもあるように、屋台や露天、電柱や広告塔、更には逆走するバイクなどがほとんどの面積を占め足の踏み場もない歩道が、バンコクには少なくなかった。その歩道がちゃんと’歩道’として機能できるようになるのは、一市民として、大変ありがたく、喜ばしい。しかし同時に、こういった屋台や露天が、バンコクの多様性をサポートし、市民により安く簡単な選択肢を提供していたことは明らかであり、人々が実際にそこで交渉し関係を作る等、コミュニティ形成の因子として、それらの場所が大いに機能していた場所もある。そこで生まれる人と人の関係は、明らかに大型ショッピングセーターでは成立しない類のものだ。こういった屋台がもつ良さをより活用し、全ての場所を同じように一掃するのではなく、それぞれの場所に合った、より持続的な整備の仕方もあったのではないかと思う。
実はさらに、現在進行している’不法占拠地’コミュニティの除却は、1982年のバンコク200年誕生記念セレモニーをきっかけに作られた、旧市街保全開発基本計画[7](The master plan for conservation and development of Krung Rattanakosin. )が元となっている。その基本計画では、’ヴィスタの確保’や’風景の改善’ が挙げられていた。今も尚バンコクでは、その30年以上も前の古びた計画をそのまま踏襲し、’不法占拠地コミュニティ’ の除却が謳われ、実施されている。

マハカーン要塞内コミュニティ(1968年) 出典:Lek-Prapai Viriyahpant Foundation

マハカーン要塞内コミュニティ(1968年)
出典:Lek-Prapai Viriyahpant Foundation

マハカーン要塞内コミュニティ解体前の様子 Photo:Supakarn Ruangdej (2016年8月撮影)

マハカーン要塞内コミュニティ解体前の様子
Photo:Supakarn Ruangdej (2016年8月撮影)

その対象の一つが、マハカーン要塞内にあるコミュニティである。ここは、今でこそ不法占拠と呼ばれるが、実はラマ3世から[8]の歴史あるコミュニティだ。旧市街保全開発基本計画には、当コミュニティを除却し、公園にする計画が含まれており、1992年にそれを実施しようとしたときも、住民や歴史家、建築家などから反対運動が起こった。2006年、バンコク都庁は様々な意見を聞くべく、’マハカーン要塞内コミュニティの保全と開発の基本計画策定調査’を、建築歴史家を含む研究チームに依頼した。住民の参加も含んだこの調査の結果として、”マハカーンモデル”[9]が提案された。そこではコミュニティを取るか、公園を取るかというような二者択一的モデルではなく、両者を両立するような案モデルが提案された。具体的には、敷地内にオープンスペースを増やしつつ、木造住宅群を保存し、要塞内を”生きた博物館”にする代わりに、住民は観光客向けアクティビティに参加したり、公共のために働く義務を全うする、といった内容だった。しかし政権の変動などにより、その提案が実現されることはなく、今年に入ってコミュニティ除却の実施が再び発表され、この9月に政府がコミュニティに入り、住民や研究者のシンポジウムが開催される中、一部の住居の解体が実施された。また、来年の4月までには、残り43戸が全部取り壊される予定だという。住民参加型の調査により、公園と博物館とコミュニティの共存モデルの提案があったにも関わらず、大変残念である。

この5年間で起きたこれらの出来事と、それを巡る考察から垣間見えるもの。それは、結果はどうであれ、バンコクという都市が、多様な側面において逆戻りできない選択を数多くしてきた、ということだ。それは、現代的な都市において「進化」と呼ぶのか、はたまた「成熟」と呼ぶのか、その辺りは定かではないが、ただ、そこには、例えば20年前のバンコクには確実に無い選択肢があり、多数の声が確実に聞こえるという状況も今まではなかったように思える。交渉ができるSNSでの買い物数が世界一[10]など、ソーシャルメディアの利用が大変活発なタイだが、もしかしたらパラレルに動くバーチャルな世界こそが、この都市の変身を支えているのかもしれない。

  1. 世界銀行の自然災害による経済損失額大きさランキング(2011年)

  2. http://thai-flood-hacks.tumblr.com/ など

  3. https://www.youtube.com/watch?v=b8zAAEDGQPM など

  4. 2016年にタイで発売された「BANGKOK: HANDMADE TRANSIT」はこの現象をバンコク独自の交通手段を通して検証している

  5. https://www.mrta.co.th/

  6. プロジェクト担当の建築家インタビュー

  7. http://www.citizenthaipbs.net/node/8231

  8. http://www.lib.su.ac.th/rattanagosin_web/?q=node/245

  9. http://www.mahakanmodel.com/

  10. https://www.pwc.com/gx/en/retail-consumer/publications/assets/total-retail-global-report.pdf

ポーンパット シリクルラタナ (Pornpas SIRICURURATANA)

1985年生まれ。2011年東京大学大学院修了後、2011-2014年タイ王国文化省現代芸術文化局勤務。2014年よりカセサート大学建築学科講師。パートナーと一緒にバンコクを拠点に設計活動。共編・共著『Towards a new vernacular : from what to how the Japanese house takes shape』、『Ho Chi Minh City : from individuals to the city』。

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