書評/岩切平 『俳句旅愁―建築と俳句のはざまで』 私家本 2016年10月1日、『レントより遅く 無文篇』 私家本 2015年8月1日
建築と俳句の狭間
Between Architecture and Haiku

建築家は、しばしば、詩人でもある。建築家が、数学や物理学に明るいのは、建築技術を理解する上で必要であり、絵画や彫刻など芸術表現に造詣が深いのも、建築をまとめる上である種の空間(造形)感覚が必要とされるからであるが、言葉による表現もまた建築家にとって極めて親しい。建築のデザインは集団的な作業であり、そのプロセスにはコミュニケーションの手段としての言葉が不可欠であるということもあるが、経済や社会や技術によって規定される「建築」の枠内に収まらない、より豊かな世界を表現しようとして、詩的言語が必要とされるのである。立原道造(1914-1939)は詩人で建築家。建築家で詩人でしかも映画評論家である渡辺武信(1938~)もいる。こんな脈略で引き合いに出すと怒られるけれど、建築都市の数理解析の第一人者であるY.A.先生から詩集を贈られたことがある。
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建築家と俳句となるとどうだろう。建築家仲間の連歌の会に加わったことがあるけれど、句会に通う建築家も少なくないと思う。宮崎を拠点にする岩切平もその一人である。昨年に続いて、2冊目の句集を送って頂いた。
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句集は、句と2頁ほどの文章(エッセイ)からなる。俳句については、全て書き写すしか能がないが、文章については理解できる。しかも、『俳句旅愁』は「建築と俳句のはざまで」をサブタイトルとするように、建築がテーマとされている。
全体は14章からなるが、元になっているのは、20年前に『西日本新聞』に14回にわたって連載した文章だという。句を読んで、その背景なり、その意味について解説するのではなく、かつて書いた文章に句をつけるという形式である。実に面白い試みである。各章3句ずつ、計42句が読まれている。すなわち、各章は3部構成で、三番目は書き下しの文章である。20年の時間をおいて、文章を再考するという構成である。
連載時のタイトルは「共生空間を求めてーアジア建築の旅」である。各回、写真が添えられていたのであるが、イメージを広げるために写真を外して俳句を添えることにしたのである。
第1章は「特定の地域」と題される。冒頭の句は「初茜いづくにも山の祭壇」である。中国の雲南シーサンパンナ、ネパールのキルティプルを訪ねた時の光景である。棚田の光景が目に浮かぶ。二句目は「この星は私の墓場初あかね」。特定の地域とはヴァナキュラーな意である。「ヴァナキュラーなものと私たちが手にする住宅とでは、実は生成のプロセスが違っているということなのだ。気候を読み取り、地形を読み取り、その土地の持っているさまざまな特徴を熟知した作り手と、同様の力量を備えた住み手がいて生み出されるものと、そうでないものの違い。…近代建築理論のまだ届かぬアジアの集落の美しさは、実はその建築の持つ全体性にあったのだ。人々の家を建てる意志が、まだ背後の森や、田畑、そして共存する動物たち、そして多分生きることへの祈りなどと一体化しているうちは、家々のたたずまいが美しいと言えるのだろう」。第1章は、まえがきというか総論である。最後の句は「俳書まとめて虚空ながめて初灯」である。
以下、全て紹介するわけにいかないから、タイトルだけ挙げれば、2 近代技術、3 竹の家、4 風鈴の寺、5風の家、6 織物の調べ、7 大地のぬくもり、8 水の誘い、9 動物たちの住まい、10 祈り、11 民族衣装、12 トイレ、13 デザイン、14 虹である。音、熱、水、生き物、・・地域の風土とともにある建築(住居)のあり方が綴られている。
同世代で、同じようにアジアを歩き回っていて、福岡で開催された日本文化デザイン会議の時に、岩切さんと出会った。その後、宮崎の「竹の会」の何周年かの時に呼ばれていったこともある。その文章には大いに共感するし、故郷宮崎に腰を据えたその仕事と活動に深い尊敬の念を抱いている。
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『俳句旅愁』の表表紙になっているのは、「平和台プロジェクト」と呼ばれ、宮崎市を見下ろす平和台に音楽ホールなどを配した講演をつくろうという提案である。実は、そこには「八紘一宇の塔」(裏表紙)が建っている。紀元2600年(昭和15年、1940年)の奉祝行事の舞台として建設されたものだ。
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「…この塔が純粋な造型として、その当時の精神性を象徴するものであったかどうかも疑わしい。筆者の調査によると、この塔の内部には四方八方に銃眼が仕組まれており、外部には縦に細長いスリットがその存在を明らかにしている。これらの銃眼が施工された目的は何だったんだろう。県の資料センターにもこのことに関するデータはなく、謎といえば言える。憶測だが、太平洋戦争に突入する以前に、最後の砦としての用途が目されていたのだろうか。いずれにしても、この塔は歴史の証人として、その建立の本意は周知されるべきであり、今後も残し続けなければならないものだ。
であるならば、その塔の前に平和のシンボルとして何らかの用途を持つものがあるべきだ、というのがこのプロジェクトの狙いだった。・・・」という。

著者紹介:
岩切 平
建築家。1948年宮崎市に生まれる。1971年名古屋工業大学建築学科卒業。1977年福岡市に岩切平建築研究室を設立。1995年宮崎市に建築家を中心にした竹の会を結成。2006年宮崎市に建築図書館を開設。

布野修司

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