研究レビュー
「自分ごととして考える」ことを促す認知実験のあり方
How Could Cognitive Experiment Be to Encourage "Thinking as Problems of Myself" ?

論文の概要

片山めぐみ、斉藤雅也、吉田淳一による「生体と観覧者の行動に基づく動物飼育展示施設のデザイン評価 —札幌市円山動物園 類人猿館改修デザインを事例として—」(日本建築学会計画系論文集,Vol.75, No.651, pp.1043-1052, 2010.5)を拝読して、評価実験のありかたについて思うところを議論したい。

本論文は、円山動物園のオランウータン飼育展示施設において、環境エンリッチメントの観点から施された改修デザインに対して行った評価研究である。改修によって新たに設けた「環境エンリッチメント要素」(地面/床素材、観覧者とのふれあい扉やガラス境界、池、登りポール、ロープ、見晴し台、古木、ブランコ、樹木、ほじくり丸太、餌タンク、水飲み場など)が、オランウータンの行動(移動、採食、急速、社会行動、遊び、外を眺めるなど)をどう変容させたかを詳細に調査した。その結果、改修前にはそのオランウータンの行動時間の8割弱が休息だったのに対し、移動、採食、社会的行動などが様々な環境エンリッチメント要素のある場所で新たに発生したという効果を論じている。オランウータンの行動面での精緻な調査は素晴らしい。

本レビューで論じたいのは観覧者の調査についてである。本論文では、観覧者に知的好奇心を芽生えさせることが目的のひとつである動物園のあり方を探る上で、来場者の会話の調査が重要であるとする既往研究に倣っている。具体的には、多くの観覧者が滞在したスペースにおいて、数十組の観覧中の生の会話を聞き取り、その発話内容を分析するという手法をとっている。分析においては、既往研究で紹介された発話分類がそれぞれどの程度の割合で出現したかを調べることに留まっている。

 

レビュー執筆者の実験デザイン提案

本論文の本来の目的は、オランウータンの経験を豊かにする(エンリッチ)だけではなく、改修デザインが「観覧者の経験」を豊かにしたのかを探ることであろう。その観点から考えたときに、採用されている観察手法は、観覧者の経験を扱うためのデータ取得には至っていないのではないかと感じる。『建築討論』のレビュー執筆の任を拝受したのであるから、まずは、「観覧者の経験」を知るために、「こんな実験手法もあり得るかもしれない」という忌憚ない提案を投げかけ、次に、その研究上の意義を論じてみたい。「科学的研究」についての従来的な思想ではタブー視される類いのデザインも含まれているかもしれない。しかし私は、「ひとの経験を扱う方法論を真剣に考える」ためには、従来思想では当然視されてきたことに疑義を呈したり、タブー視されてきたことに挑んだりすべきであると思うのである。建築学は世の先陣を切って「経験の学」を模索すべき/できる学問分野のひとつではないかと。

 

実験デザインその1:観覧に能動的な被験者を募る

観覧者の会話を聴き取るという手法の代替として、被験者を募ることを提案する。観覧中の会話を採取する点は本論文の手法に賛同する(被験者は一チーム二人以上がよいであろう)。そして、最も重要なこととして、チームのメンバーの多くが「オランウータンが好きである」ことを条件としたい。

 

実験デザインその2:被験者には複数回の実験に参加してもらう

被験者の募集時に、定期的にこの展示施設に来てもらうこと(例えば、季節の変遷も含むように2ヶ月に一回程度、全6回程度)を約束してもらう。必ずしも毎回チーム全員が揃わなくても致し方ないが、各メンバーは通算少なくとも3〜4回は来場するのが好ましいと伝える。

 

実験デザインその3:被験者への教示

被験者を募る以上、改修デザインの評価実験であることを伝え、改修前後で何がどう変わったのかについての情報も与える。発話の録音の同意を得て、各メンバーにICレコーダーを装着する。それ以上の制約はないこと、そしてただ自由に観覧して楽しんで欲しいことを伝える。自分達の発話が研究材料になるから、ICレコーダーを装着しているからと意識過剰になって、「何かをしゃべらなければ!」と拍車をかけることはしないでほしいこと、そして、結果的に何も喋らなかったとしてもまったく構わないことを伝える。

 

実験デザインその4:観覧中以外の意識調査

毎回実験前に、その日の観覧に当って予め考えていること、観たいこと(いわゆる「目的意識」)などがあれば、それを語ってもらうインタビューフェーズを設ける。チームの各メンバーを個々にインタビューするのではなく、その日の目的意識について(「目的意識」という研究的な文言は伝えないが)会話してもらう。更に、実験後に、その日感じたこと、気づいたこと、考えたことなどを自由に語ってもらうインタビューフェーズを設ける。

このインタビューも、チーム全員が自由に会話する形で進める。インタビューは観覧エリアで行う。喋っていることに該当する観覧場所、エンリッチメント要素、オランウータンの状態があれば、それを指差しながら、臨場感をもって具体的に語ってもらうためである。

 

「ありのまま」についての議論

本論文の著者が、実験であることを伝えないまま観覧エリアで実際に交わされる生の会話をデータとしたのは、観覧者の「ありのまま」の意見や評価を聞き出したかったからであろうと推察する。研究・実験への参加意識は生の声を隠蔽し、「求められていると想定する」回答、あるいはその想定回答に対する反対意見を答えるという、ある種の誘導が生じることを恐れたのであろう。「生の声」を取得すること、それは一般に、認知実験(評価実験)において目指すべきゴールである。

「ありのまま」とは何だろうか? ひとが心の内で感じているものごとを、他者が何の介入もせずに「そっと取りだす」ことだろうか? 私はその人独自の心の中身を「そっと取りだす」ことは不可能であると考える。例えば、会話を交わす二人は互いの発話内容に影響を受ける。Aさんが強い意見を述べたとき、相手のBさんは必ずしも付和雷同するわけではない。しかし、Aさんの意見の根底にある着眼点(意見の対象物、その対象物についての特定側面など)がBさんの意識に上るという点で、Bさんは影響を受けている。Aさんがその意見を述べなかったとしたら、Bさんはその対象物やその側面について着眼すらしなかったかもしれない。

ひとは他者に出逢い、意見を交わし、社会で生じる様々なものごとに影響を受けながら、自分なりの意見を形成する。他者や社会の変化に応じて各個人の意見も変化する。ひとは社会的な生きものである。Bさんに影響を受けたからといって、Aさん独自の意見ではないと論じても、社会的には意味のないことだと思うのである。実験デザインその1において、複数人の会話により各被験者の意識のデータを取得するのがよいと提案したのはそういう意図である。その点について本論文の著者も同意見であるかもしれない。

「介入」や「誘導質問」という文言は弊害の響きがあるが、ひとは、様々な介入や誘導を受け、影響を受けたり、流されたりしながら、それでも自分なりの意見や解釈を持とうとする。「ありのまま」とは即ち「介入しないこと」ではないと、私は考える。

これは、意識調査の代表的な手法であるアンケートやインタビュー全般にも当てはまる問題である。アンケートはインタビューと違って、インタビュアーが直接関与しないので「介入はない」と安易に考えられがちだが、そんなことはない。アンケート項目を提示する以上、研究者の着眼点を与えることになる。「明示的な項目として与えられたら、ついそれについて答えてしまうけれど、自由記述だったらそもそもそんなことに着眼しなかった」かもしれないのである。

従来、多くのインタビューでは、「インタビュイーに介入しない」ことを原則として謳い、インタビュアーの御法度リストが経験的に存在する[Valerie2005]。しかし、インタビュアーが質問する以上、介入なしのインタビューは存在しない。私は

  • 「介入しないことが、ありのままの心の声を聴くことにつながる」は幻想であり、一般に、そういうデータ取得法は存在しない、
  • ひとは社会的な生きものであるので、被験者は、様々な介入・誘導・押しつけをものともせずに、「自分ごととして」実験・研究に参加し、自分なりの意見を紡ぎ出すことは可能であり[清水2014a][清水2014b]、そのような実験デザインを整えることが重要である、

と考えている。「ありのまま」とは、介入せずに「そっと取りだす」ことではなく、被験者が「自分ごととして」考えたときに生じる状態ではないだろうか?

 

「自分ごと」を促す実験デザイン

「自分ごと」とは、自分の身体の感覚や生活の実体・文脈に即して、ものごとに対処したり、考えたりすることを指す[諏訪・藤井2015]。認知実験(評価実験)において最も重要なことは、被験者に自分ごととして対象に取り組んでもらうことであると私は考える。例えば、アンケート項目に(自由記述であれ、選択式であれ)回答しなければならないという要請は、自分ごととして取り組むことへの阻害となる可能性もある。インタビューでも、インタビュアーの質問の意図が計りかね、あるいは琴線に触れなければ、自分ごととして考える動機が湧かず当たり障りない回答をしてしまうことも少なくない。研究を離れた一市民としては誰しもそういう経験をしたことがあるはずである。

オランウータンが好きなひとを被験者にすべきである(実験デザインその1)と提案したのは、自分ごととして実験に参加してもらうための必要条件の一つだからである。オランウータンが好きであれば、実験・研究のための観覧であることを認識していても、ICレコーダーを装着し自分の発話がデータになると意識していても、そのうちその意識は薄れ、目の前のオランウータンの生態に心を奪われて自然に発話するようになるものである。したがって、被験者を募ることによる実験参加の自意識(実験デザインその1)や、ICレコーダーの装着への要請(実験デザインその3)は、さして大きな問題にはならない。

コミュニケーション研究者の坂井田[2015]は、協同調理(この論文ではもんじゃ焼きの調理)における参加者の身体の振舞いが互いのコミュニケーションにどう寄与しているかを分析するために、市井のお好み焼き店で、鉄板の横に小型カメラを置いて撮影している。最初は、被験者全員が実験であることを認識しているものの、刻々と火が具材に通る時間的制約のなかで、具材を置いたり、整形したり、汁を流し込んだりする作業を協同でこなさなければならないという繁忙さが、いつしか撮影されていることを忘れさせてくれると論じている。

思わず一生懸命にならざるを得ない状況、つい楽しくなってしまう状況に被験者を置くことが、被験者を「自分ごと」にさせる実験デザインを形づくる。

 

普遍性の問題

被験者はオランウータンが好きな人に限ると聞いて、「そんな偏った被験者では一般的な傾向が見出せないではないか!」と違和感を覚える方もいるだろう。しかし、これはオランウータンの飼育展示のあり方を模索するための研究である。オランウータンが好きな人たちが楽しい観覧経験を得られるような展示の仕方を知ることこそ肝要であるとすると、「好きなひとたち」に限るのは問題ではない。

科学的研究の原則のひとつは普遍性である[中村1992]。オランウータンが好きな人も、嫌いな人も、そのどちらでもない人も楽しめるような「普遍的な展示のあり方」があると想定する研究者は、被験者を「好きなひと」に限ることに違和感を抱くのだろう。そういう普遍解の存在を信じて、実験が「自分ごと」にならない危険を犯す(嫌いなひと、どちらでもないひとが被験者の場合、その可能性が高い)のか、それとも「自分ごと」になりやすい「好きな」ひとを被験者にして、彼らが楽しめる展示のあり方を探るのか? 私は後者の方が得策であると感じる。オランウータンが好きな人たちも、ものの感じ方は一律ではないはずだとすると、後者のケースも決して普遍解を求めていないわけではない。前者よりは少し狭めの解なのかもしれないが。

 

フィールド研究

私の提案の本丸は実験デザインその2の「同じ人が複数回実験に参加する」にある。「複数回参加したら、季節や天候といった環境条件が変わるだろうから、多くの被験者から集めたデータの比較ができない。何が普遍的な知見なのか判然としなくなる」という懸念を持つ方も多いであろう。しかし私は、そういう懸念にこそ、実験心理学で多用される統制実験という思想の弊害が顕在化していると感じる。

「できるだけ環境条件を一定にして、多くの被験者からデータを収集し、その共通項を抽出する」ことが科学的研究のあるべき姿であると考える研究者は今でも数多い。しかし、ちょっと待った!と言いたい。私たち研究者は実世界に出て研究すべきではないのか? 動物園には一年中観覧者が訪れる。暑い日も寒い日も、快晴の日も雨の日もある。条件統制など一切存在しないのが実世界である。揺れ動く多様な環境のなかで、年間を通して動物園の観覧は行われ、観覧者は様々な経験を得る。統制された環境条件における共通項を見出そうとする意図の方が、世界の実体から逸脱していると思うのである。

認知科学分野では昨今そういった研究動向が提唱されはじめた。日本認知科学会の学会誌『認知科学』の2015年3月号の特集のテーマは「フィールドに出た認知科学」であり、認知科学は実験室を出て実フィールドの個別具体的な状況のなかに立ち上がる知を探究するべきであると主張している。

提案の議論に戻ると、同じひとが複数回その展示施設を訪れ、様々な環境条件のなかでオランウータンとの対面を経験し、その経験についてその施設を評価して初めて、真の評価データになり得るのだと感じる。単に「フィールド(例えば動物園)に行く」ことがフィールド研究なのではない。実フィールドでは環境条件を統制できないことを認識し、様々な条件におけるひとの経験から仮説や知見を見出そうとする研究態度が重要なのである。したがって、動物園の改修デザインのケースでは、一回きりの観覧ではなく、同じ被験者が複数回観覧した上での経験を語ることがフィールド研究として重要であると考える。複数回同じ施設を訪れることを厭わない被験者は、自分ごととして実験に参加してくれているひとであることは言うまでもない。

 

構成的デザイン

「複数回参加」は様々な環境条件のなかでの評価のためだけではない。複数回参加して初めて、各被験者は自分ごととして展示施設の評価に取り組めるようになると考える。

ここで「構成的科学」の思想について簡単に紹介する。最初は複雑系やロボティクスの研究分野から登場した研究方法論であり、その基本的な態度は「時を止めて対象を観察するのではなく、対象が実世界のなかで“生きている”状態のまま、その有り様を観察する[永井ら2010]」というものである。“生きている”とは、時間の流れのなかで環境から様々な影響を受けながら姿を進化させることである。顕微鏡で観察せんがために対象物を切り刻む(スライス)ことをしてしまうと、生きたままの姿を観察できない。

ひとは世界の様々なものごとに遭遇して、触発を受けたり、連想したり、問題意識をもったり、目標を立てたりする。そして、問題意識や目標に基づいて行動する。行動は世界に対する働きかけを意味するので、それによって世界は変容する。デザイナーが新しい商品をデザインして世に出せば、消費者から反応が返ってくる。そして重要なことに、デザイナーが想定しなかったような新しい使い方が一般消費者のあいだで生まれたりもする。一般的な言い方をすれば、新規商品の発表(一般的には「デザイナーの行動」)と社会のインタラクションが生じるのである。インタラクションは想定外の効果、着眼、価値を生む。そして、インタラクションを経て、デザイナーは更に新たな問題意識を育み、目標を立て、次なるデザインを編み出す。中島、藤井、諏訪[中島ら2008]はひとの意識・行動と社会のエンドレスな進化サイクルのことを「構成のループ」と呼び、その概念図を整備してきた。

動物園の観覧者は、複数回訪れて様々な環境条件のなかでオランウータンに接するプロセスのなかで、毎回新たな気づきや触発を得たり、疑問・好奇心・問題意識を抱いたり、次に来るときにはこんなことをしてみたいという目標を立てたりするはずである。疑問や問題意識や目標は、次に来たときのオランウータンや環境条件とのインタラクションで解消するかもしれないし、更に深まったり更新されたりするかもしれない。

複数回参加するからこそ被験者は次第に自分ごととして考えるようになる。自分ごとになるためには時間がかかるのである(清水ら[清水2014a][清水2014b]は、定型的な語りを破って心の声を聴き出すためのインタビューは、日にちを開けて少なくとも3回程度実施するのがよいというヒューリスティクスを得ている)。更に、そうして自分ごととして考えるようになった被験者は構成的ループを加速させる。

私の実験デザイン提案の意図は、被験者の認知に構成のループを起こすよう促し、そのループ状態にある被験者の心の声を聴き出したいということである。一回きりの施設訪問で(時を止めた)評価データを得るのではなく、回を追うごとに問題意識を育み、新たな観覧行動を試み、様々な着眼点を得て、次なる目標を立て続ける観覧者の行動と心のデータを取得したい。そういう観覧者は、いわば「学んでいるひと」である。「ひとを学ばせながら学びの様態を捉える」[諏訪・藤井2015][諏訪2016]ことが、認知実験(評価実験)のひとつの理想型であろう。そうした観覧者が数多くいれば、もしかするとオランウータンの行動にも影響を与えるかもしれない。それも構成のループのうちである。

実験デザインその4で、実験前にその日の意図を、実験後には気づいたことを語ってもらうことを提案したのは、被験者に語ってもらうことによって構成的ループを自ら意識させるためである。諏訪が提唱している「からだメタ認知」という手法[諏訪・藤井2015][諏訪2016]である。ややもするとやり過ごしてしまう暗黙的なものごと(典型的には体感や気づきや行動)を少しずつでもよいからことばで表現することを通して、構成のループを促すことができる。

この手法に対して「語ることは、その後の自分を縛ることになるのではないか」という懸念を示す方もいるかもしれない。それに対する私の回答は「自分ごととして考える限り、縛られることはない」である。もちろん、ことばは諸刃の剣であり、自分を進化させるツールにも縛る原因にもなる。自分ごととして考える構成のループに入りさえすれば、一時的には縛られることになったとしても、それを自分で意識でき、自ら解消するような心持ちが必ず生まれる。複数回訪れてオランウータンの生態に興味を抱き、ますます知りたいことが増えてくると、「縛られている場合ではない」という模索マインドを持つようになる。長期間に亘り自分ごととしての模索をするようになれば(つまり、被験者のひとりひとりが一人称研究[諏訪・堀ら2015][諏訪・藤井2015][諏訪2016]を始めるようになれば)、語ることで縛られるという問題は実際には生じないことを言い添えておく。

 

参考文献

[中島ら2008] 中島秀之, 諏訪正樹, 藤井晴行. 構成的情報学の方法論からみたイノベーション, 情報処理学会論文誌, Vol.49, No.4, pp.1508-1514,(2008).

[永井ら2010] 永井由佳里, 藤井晴行, 中島秀之, 田浦俊春. 特集「デザイン学」の編集にあたって, 認知科学, Vol.17, No.3, pp.385-388, (2010).

[中村1992] 中村雄二郎.臨床の知とは何か, 岩波新書,(1992).

[坂井田2015] 坂井田瑠衣, 諏訪正樹. 身体の観察可能性がもたらす協同調理場面の相互行為 —「暗黙的協同」の組織化プロセス, 認知科学, Vol.22, No.1, pp.110-125,(2015).

[清水2014a] 清水唯一朗,諏訪正樹.オーラル・ヒストリメソッドの再検討:発話シークエンスによる対話分析, KEIO SFC Journal, “SFCが拓く知の方法論”特集号, Vol.14, No.1, pp.108-132,(2014).

[清水2014b] 清水唯一朗, 諏訪正樹.身体知の観点から聴き手—話し手の関係を捉える
—オーラル・ヒストリメソッドの再検討—,人工知能学会第18回身体知研究会,SKL-18-10, pp.16-22,(2014).

[諏訪2016] 諏訪正樹.「こつ」と「スランプ」の研究 — 身体知の認知科学, 講談社選書メチエシリーズ,講談社, (2016).

[諏訪・藤井2015] 諏訪正樹, 藤井晴行. 知のデザイン, 近代科学社, (2015).

[諏訪・堀ら2015] 諏訪正樹, 堀浩一(編著), 伊藤毅志, 松原仁, 阿部明典, 大武美保子, 松尾豊, 藤井晴行, 中島秀之(著). 一人称研究のすすめ — 知能研究の新しい潮流, 近代科学社, (2015).

[Valerie2005] Valerie, R.Y. Recording Oral History:“A Guide for the Humanities and Social Science (Second Edition)”, AltaMira Press, (2005).(吉田かよ子(監訳・訳), 平田光司, 安倍尚紀, 加藤直子(訳),『オーラルヒストリーの理論と実践 人文・社会科学を学ぶすべての人のために』, インターブックス(2011)).

諏訪正樹

慶應義塾大学環境情報学部教授。工学博士。東京大学大学院工学系研究科博士課程修了。(株)日立製作所基礎研究所、スタンフォード大学CSLI研究所にて客員研究員、シドニー大学建築デザイン学科主任研究員、中京大学情報理工学部教授などを経て、2008年4月より現職。身体知の学び、コミュニケーションのデザインを専門領域とする。自ら野球選手として打撃スキルを学ぶ実践(フィールドに出た構成的研究)から、学び理論「からだメタ認知」を提唱し、身体知を探究してきた。単著に『「こつ」と「スランプ」の研究 身体知の認知科学』(講談社)、共著に『知のデザイン 自分ごととして考えよう』、『一人称研究のすすめ 知能研究の新しい潮流』(ともに近代科学社)など。

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