1.指定文化財の一歩手前で
2015年夏、5名の学生とともに実測調査をスタートした。
熊本城も明治時代を迎え、城内にあった家老屋敷も外へ移動せざるをえなくなった。明治5年(1872)、城の北にある屋敷にすむことになり家老が建てたのが今回調査する建物であった。大きな池や築山のある庭園が今でも広がる。建物は庭のすぐ東に建つ。本来は庭の南にあったらしいが昭和初期に現在の場所に曳家したという。
調査では、建物の実測図の作成とともにこの建物の建立年代やその後の変遷、建物の使われ方なども併せて調べる。建物の歴史的建造物としての価値を見定めることにする。
建物は、数寄屋風の二階建ての住宅建築である。一階は床・棚のある八畳の主座敷とこれに続く六畳、壁を隔てて六畳大の板の間が東西に一列に並び、南に広縁がついて三室をつなぎ、北側も主座敷・次の間には畳敷きの広縁がつき、六畳の北側は玄関の間とする。主座敷・次の間とも内法長押を巡らし、後述する二階の土壁が待庵を思わせる苆入りであるのに対して、苆のない土壁とする。次の間北側の広縁の一角に設けられた階段を上った二階は、一階よりも数寄屋風が濃厚である。最も東の主座敷は畳床をもち、床柱の脇には板を敷き込みその前面を中央部が下地窓になった土壁とする。土壁は先述のように苆入りである。主座敷に続く部屋も床をもつ。両室の南側には中敷居下に竹の手摺子をいれ、上下に明かり障子、柱筋の外には雨戸をいれる。南側には本来の庭とは別にこの曳家した建物のために、飛石や灯篭を置いた木々の緑もみずみずしい庭が造られており、二階から見る緑が竹の手摺子と相俟って美しい。
痕跡調査によって、現在の建物にはさらに大きな建物が接続していたことがわかった。小屋組もかつて建物が接続していたと思われる側は梁が組みかえられている。棟木の下端には棟札が打ちつけられていて、明治6年の上棟であることが明確になった。文化財としてはこれが確定したということはやはり重要なことである。実測調査は1日ではおわらず、4日かかった。新聞や地図を収集・分析も行った。
年末までには図面は完成し、建物の歴史的な調査の分析も加えて、4年生の一人はこの建物の報告をもって卒業論文とし、無事発表も終えて3月に卒業していった。
4月、大学は新学期を迎えた。少し遅くなったが、昨年の報告をする。報告がでれば市指定以上の文化財となる可能性は大いにある。そう考えていたところに地震が起こった。
2016年4月14日9時26分前震。この日はたまたま早く帰宅していた。外へ飛び出すと、地面がウォーターベッドのようにブニャブニャと波打った。戻った部屋のTVには、屋根から煙を昇らせる熊本城天守が映しだされていた。
4月16日深夜1時25分に本震。このとき、昨年からわれわれが調査をしてきた建物は倒壊した。南北に大きく揺れたらしく二階は北側に落ちた。落ちるときに一階の北側部も破壊した。調査を依頼してくださった方に電話した。「もう全部つぶれました」と思った通りひどく落胆されている。木造は大丈夫です。部材が残されていれば、もとに戻せます。ブルーシートをかけておいてください。とお願いした。それから4か月、ブルーシートはめくれ、吹き込んだ雨で畳にはカビが生え、水たまりができたためであろう、たくさんの蚊が発生した。早く何とかしたい。文化財になるであろうと期待していた。指定文化財であればいずれ修理の手が差し伸べられるであろう。しかし、いまだに建物は未指定文化財である。
2.ヘリテージマネージャーと文化財ドクター
熊本地震の後、文化庁の事業「文化財ドクター」が日本建築士会連合会・日本建築学会・日本建築家協会により進められている。未指定文化財を含む文化財建造物を調査・復旧指導することを目的とする。東日本大震災でも行われたが、今回が前回と違うのは実質的な調査を「ヘリテージマネージャー」が中心となって進めていることである。
熊本県のヘリテージマネージャー養成講座は、前年の大分県に続いて2011年にスタートし、5年間で80名以上の修了生を生み出した。九州各県で生まれたヘテージマネージャーは連携をとって活動を進め、2012年・2013年には大規模災害時の歴史的建造物に対する模擬訓練を熊本県人吉市、大分県日田市、鹿児島県鹿児島市で行政とともに実施していた。あたかも地震を予想していたかのようである。さらに熊本地震においては協定を結ぶ九州各県のヘリテージマネージャーにより被災文化財建造物調査がいち早く実施された。熊本県では前年に「近代和風建築調査」が始められたところで、1次調査の中から2次調査対象が選ばれたという段階にあった。この被災調査では「近代和風建築調査」の2次調査対象リストを対象に実施された。これに続いた文化財ドクター事業は、ヘリテージマネージャーによる模擬訓練や調査の「準備」があった後に行われたので実にスムーズに進んだ。日本にヘリテージマネージャーをつくり、その進化に尽力されてきたすべての方々に感謝したい。
7月22日には東京・新宿の工学院大学アーバンテックホールで文化財ドクターの中間報告会が開催され、調査報告等に続き提言が出された。提言は大きく4つからなる。復興基金で未指定文化財を救うこと、熊本城を核とする新町・古町地区・大津町の重要文化財・江藤家住宅を核とする地区を歴史町づくり法に基づく重点地区にすること、宇城市小川地区・同松合地区・天草市牛深町を重要伝統的建造物群保存地区にすること、さらにヘリテージマネージャーを活用することである。
未指定文化財を救うための提言は、ここであがった県や市町村に熊本の復旧委員会のメンバーを通じて手渡されている。しかし、これが実行に移されるか否かはまったくわからず、予断をゆるさない。
3.新たに輝く姿を見せはじめた文化財建造物
地震は、多くの建物を破壊したが、震災前には調査も行われず、その姿をほとんど見せていなかった建物の素晴らしい価値を明らかにする契機にもなった。被災調査によって新たな文化財候補の「発見」が相次いでいる。熊本市中央区新町に吉田松花堂の建物はその一つである。明治10年の西南の役で焼け野原になった後につくられた屋敷で、市電も通る街路に面する町なかに高い塀を巡らし、なかには一部二階建の主屋に続き、広間や書院、茶室が廊下で連続し、蔵を建て、豊かな緑と築山に池といった庭があって、上質の建物と庭が一体となった屋敷構えが見事である。
地震前はどんなに素晴らしかっただろうかと思わせられる建物が倒壊し、公費解体をまつ例も数多く目にしたが、新しく輝く価値をみることができるようになった未指定文化財に対しても力を注いで護ってゆかねばならない。
4.地震の損傷でわかってきたこと
地震による損傷することで明らかになってきた事実も多い。昨年われわれが調査した建物は二階が崩落したが、残された1階の床の間の壁と次の間の壁の内部にブレースが入っていることが崩れた壁の中から見出せた。一階の壁に苆がなかったのはブレースを入れるために壁を新しく塗り直したからで、二階は当初のままであったためであった可能性がある。
五高記念館の内壁はあちこちの漆喰が落ちて、煉瓦の躯体が露出しているが、教室の出入り口上部にはアーチ状の木製部材を入れて上に煉瓦を積んでいる。構造は完全な煉瓦造とばかり思っていたが一部に木材を使用していることは図面でも分からなかった。
同じ五高の煉瓦造の表門は、残された立面図の中央に破線で鉄筋の示しているのではないかと思わる表現がみられたが、地震前の調査でも鉄筋の存在は明らかにできなかった。しかし、今回の地震で学校の門柱が倒れる事例が多くみられたのにもかかわらず、表門は笠石が若干動いたといわれるもののほとんど地震による被害はうかがえなかった。鉄筋の存在は疑えないであろう。
構造の研究者とは異なるみかたで建物をよく見つめるところから、建築史分野の研究者が明らかにしてゆかねばならないテーマも、地震の現場にはたくさん転がっている。
5.熊本城と未指定文化財
被災調査をしてみると、壊れた建物は国指定、県指定、市町村指定、未指定の別に関係ない。さすがに熊本城は復旧に向けて動き始めた。他は県指定のジェーンズ邸であっても、倒壊したままである。倒壊してしまうと木造はどれも一緒である。臭いも同じだ。ブルーシートは被っていても長く放置しておけば部材は傷む。どれも救いたい。未指定文化財は元に戻すための費用がない。熊本城は、本当に充分であるかどうかは別にしても、費用はある。しかし、文化財に相応しい修理がなされなければならない。修理する建物の数も膨大である。修理を急ぐあまり、その点がおろそかになってもいけない。指定の種類や有無によって内容は異なるが護るための課題はいまだに山積している。
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