研究は知をデザインする行為である。自分自身が知りたいものごとを知ることができるようにあれこれとやってみる。すなわち、自分の好奇心を満たしうるものごとを探し求めて知のフィールドを探検する。これが研究の基本である。自分がデザインした知に自分以外の人が、少なくともひとりでも、何らかの価値を見いだすと考えられるとき、その研究について公開する意義が生まれる。研究によってデザインされた知が、自分以外の人にとって、知りたいものごとそのものである、知りたいものごとを知りうるための問いをたてるきっかけになる、知りたいものごとの存在について疑わざるをえないような驚くべきものごとであるなどのような意義である。
研究論文には、いかなる知をデザインしようとしているか、あるいは、したかについて、著者の主張が示される。学術論文誌には、投稿された研究論文において主張の正しさが理にかなう方法で論証されているか否かを判定し、合理的な論証がなされていることを確認できた研究論文を公開するという役割がある。この役割によって、自分自身の好奇心を満たすべくデザインされた知が、独り善がりのものごとではないことが保証され、その知をデザインした人ではない読者が自分にとっても価値があるものごとであるかどうかを判断する機会がつくられる。研究者の好奇心が見え隠れし、興味が向けられている対象に私も興味を覚えるとき、研究論文は私にとって価値のあるものとなる。
磯野綾、吉村晶子、金子将大による「ブータン王国パロ県の農村集落チュバ及びアツォにおける伝統住居の屋内平面構成に関する研究 – 各部屋の現地ゾンカ語呼称と用途に着目して」(日本建築学会計画系論文集,Vol.81, No.724, pp.1315-1324, 2016.6)は、ブータン伝統住居の屋内空間に対する居住者の空間認識や各室の意味を考察するための基礎資料とするために、同国チュバ集落及びアツォ集落に残る伝統住居を対象とする実踏・実測調査とヒアリング調査によって①各部屋の使われ方の具体的事例と②屋内空間の基本構成と各室の現地ゾンカ語呼称を明らかにしようとする論文である。筆者たちが属する文化圏とは異なる文化圏にある伝統的民家を対象とする研究の姿勢や方法に興味を覚えている。
磯野ら(2016)が現地ゾンカ語による室や空間の呼称に注目するのは、チュバ及びアツォにおける伝統住居の居住者であるブータン人自身の屋内空間に対する空間認識を捉えるようとしているからである。ゾンカ語による室や空間の呼称とブータンとは文化圏や語族が異なる訳語(この研究では英語)による室や空間の呼称は必ずしも一対一対応しているわけではなく、訳語では原語が指し示す室や空間を指し示すことができない場合がある。ある言語における空間や室の呼び方にはその言語を用いる文化圏における空間認識が現れている。原語による呼称と指示対象や意味が完全に一致するような訳語の呼称がない室や空間について訳語を無理にあてはめて理解しようとすると本来の空間認識が捉えにくくなるという考え方が研究の前提にある。
自分が属する文化圏とは異なる文化圏における空間の認識の仕方を研究しようとするとき、使用する言語の問題は避けては通れない問題である。世界をどのように分節化するか、世界をいかなる構成要素がいかなる関係をもつものごとによって成り立つものとして記述するかに関しては言語に依存する部分がある。空間の認識に関わる概念体系も同様であろう。自分たちの言語やその言語が記述する概念体系を用いて異文化圏における空間認識を「ありのまま」に捉えることは可能であろうか(第一の問い)。ある室や空間の物体的構造について、すなわち、どういう物体をどのように配置してそれがつくられているのか、そこではどういう行為がなされているのか、その室や空間は原語でどのように呼称されるのかを記述することは可能であるように思われる。ある言語共同体における具象的なものごとを指差し、それがその共同体が用いている言語のどのような語によって指示されているかを、あるいは、指示する語がないことを、「ありのまま」の事実として記述することは不可能ではない。少なくとも、人類に共通しているものごと、例えば、からだのある部分 – 頭とか手とか耳とか – を指差したり、からだを維持するために行っているものごと – 食べるとか用を足すとか眠るとか – を指差し、それを指示する語を確認することはできそうである。
磯野ら(2016)は、ブータン王国において、伝統住居の外観及び内部の実測、住居敷地周辺の地形の測量などを行う調査に参加し、居住者の家族構成、生業、屋内各室のゾンカ語呼称、使われ方についてヒアリングを行い、各室の呼称と使われ方をスケッチや間取り図に記入している。ヒアリングは英語-ゾンカ語通訳を通して行われた。ゾンカ語呼称は聴き取った発音をラテン語文字で表記している。その際、英語による呼称も同時に確認している。彼らは、(ゾンカ語による)「部屋名呼称」には、機能に関わるもの(GOBA(主要な出入口)、THAPTSHONA / TAPTSON(カマドがある場所)、YOUKHA / YUKA / YUKU(居間・家族が集まる部屋・客を通す部屋)など)、空間の特徴に関わるもの(BAKO / BAKONA / BACO / BACONG(中間の空間・部屋と部屋の間・つなぎの空間)、JABYOUG(裏の空間)、YOUCHU / YUCHU(側方への張り出し部)など)などがあることなどを確認している。前者には、呼称のもとになった機能を失った現在でも過去の機能に基づく語で呼称される空間もある。ここで、括弧内の日本語は磯野らによる記述である。THAPTSHONA / TAPTSON と BAKO / BAKONA / BACO / BACONGは逐語訳である。
原語による呼称とその指示対象の特徴を研究者の母国語で記述する場合、母国語の文化圏における空間認識の影響を完全に消去していることを明確をしていない状況で、異文化における空間認識を本当に「ありのままに」捉えていると主張できるだろうか。例えば、ゾンカ語の「JABYOUG」が指示する空間の特徴が日本語で「裏の空間」と記されているとき、日本語で理解する裏の空間とういう概念がゾンカ語を母国語とする人たちと JABYOUG という概念と同一であることをいかにして保障すればよいのだろうか。伝統住居の平面図における JABYOUG の位置やその使われた方を日本語を母国語とする私の眼から見れば、JABYOUGは日本語の「裏の空間」で指示できる特徴をもつ空間であると認識できる。そこには日本の文化圏における空間認識が混在してはいないだろうか。ネパール人が JABYOUG とよぶ空間を日本人は裏の空間と認識するが、ネパール人も私たち日本人と同様に裏の空間と認識していることを論証しなくては彼らの「ありのまま」の空間認識が捉えられてるかいないかは明確にならない。現地の人たちの空間認識に日本語では説明できない概念があるとすれば、全てを現地語で理解して説明する以外に「ありのまま」の空間認識を捉える方法はないような気がする。
異文化の空間認識を「ありのまま」に捉えることがある程度までは可能であるとして、そうすることが建築の研究にとってどういう意味をもつのであろうか(第二の問い)。異文化における「ありのまま」の空間認識を捉えたい(デザインしたい)という研究者の好奇心を満たす可能性があるという意味には疑問の余地はない。ただし、好奇心が強ければ強いほど、何かを知るとそこから新たな問いが生まれる傾向が強く、好奇心は、実は、いつまでも満足されない。
この研究論文が公開されることによって、そのような知それ自体、あるいは、その知のデザインのプロセスに興味がある人の好奇心を刺激するという意味もある。磯野ら(2016)の研究論文は異文化における「ありのまま」の空間認識という知をデザインする方法の実践と成果を記したものである。ネパール王国の伝統住居の空間構成や居住者の空間認識に関する知を示するとともに、それらの知をデザインする方法について考えるきっかけを生んでいる。伝統住居の事例調査の結果を客観的事実として整理して記述するにとどまる調査報告のようにも見えるが、読解してみると、実は、そうではないことに気づく。客観的事実の記述に加えて、一人称の視点から観たものごとや考察が記されており、筆者たちの主張が行間に浮き彫りになる。
私自身も異文化における伝統的民家の空間構成や空間認識に興味をもち、日本国内や東南アジアで調査をしているが、原語とは異なる、論証に使用する言語の文化圏における概念体系から完全に自由ではない状況では、異文化の人々にとっての純粋な「ありのまま」の事実として何かを記述することよりも、むしろ、彼らの伝統的民家の空間構成を彼らの一人称の視点という眼鏡を通して私の一人称の視点から観るといかなる考察ができるかということに関心がある。客観的事実として観察可能な「ありのまま」の事実や現象の事例を蒐集したら、それらを司る原理や法則性を見いだしたい。私が見いだした原理や法則性が彼らが認識している原理や法則性と同一である場合、私が見いだしたものごとを彼らは既に知っているという意味で新しい知ではない。彼らも私もまだ認識していない知をデザインするとき、デザインされる知は「ありのまま」にはなりえないと考える。
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