権威的な「神殿」は欺瞞、「獄舎」にこそ建築的想像力がある
<神殿か獄舎か>
かつて建築家アドルフ・ロースは『装飾と罪悪』を通じて装飾を罪とし、近代建築の誕生を促した。これに対し、批評家・長谷川堯は建築が持つ罪深さに着眼して『神殿か獄舎か』を書き上げた。この中で長谷川は丹下健三を徹底批判しつつ、装飾や触覚を評価する視点を導き出し、戦後日本建築の多様性や可能性を押し広げた。
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『神殿か獄舎か』はタイトルから読者に二者択一を要求しているが、本文では大まかに三つの二項対立が示されている。一つ目の二項対立は、明治と昭和という二つの長く強力な時代に対して大正を押し出し、大正期に活躍した建築家・後藤慶二の業績にスポットを当てていることだ。明治期には日本に西洋建築が輸入され、昭和期には近代建築が輸入されたが、その過渡期に作品を残した後藤は後の分離派に大きな影響を与えた。長谷川は後藤の代表作・豊多摩監獄を絶賛し、市中の人々にとってデッドスペースでしかない監獄が、囚人にとって自分の存在を証明する唯一の拠り所となっている、と指摘した。
二つ目の二項対立は、神殿と獄舎の対比である。前者には辰野金吾・丹下健三・磯崎新らが属し、国家権力の意思に応えようと、視覚的に優れたモニュメント(例えば代々木体育館など)を模索する姿勢を指す。後者には後藤慶二・村野藤吾・今和次郎らが属し、装飾と触覚に注力することで建築が持つ罪深さ(どんな公共建築も権力と分かち難く結びつき、人の自由を奪う宿命)と向き合い、装飾と触覚を通じて利用者と建築が結ばれる、という。
三つ目の二項対立は、丹下健三と白井晟一の対比である。長谷川は、丹下による大阪万博会場デザイン(1970)が権力にすり寄ったデザインである、と酷評する。それに対して白井の住宅は城塞や洞窟のようであり、建築の本来の姿を探求している、と絶賛している。
『神殿か獄舎か』は明快な二項対立と勧善懲悪に貫かれ、高度成長が終わった70年代の鬱屈した社会情勢と相まって、多くの若者を魅了した。また、安藤忠雄のRC打放し住宅の登場を予告するように、「3つの<D>」(Defense=壁を立てること、Dimensions=内に開くこと、Detail=装飾)を持つ建築の重要性が指摘されている。長谷川の思考を継承した取り組みとして、建築家・建築史家の藤森照信による今和次郎や村野藤吾への評価が挙げられる。
関連作品
住吉の長屋(安藤忠雄設計、1976)
建築家の北山恒は、『神殿か獄舎か』で指摘された「3つの<D>」が「住吉の長屋」などの安藤忠雄のRC打放し住宅をはじめとする1970年代の住宅作品に表れていると指摘している(関連文献『INAX REPORT』no.168)。
関連文献
– 長谷川堯『神殿か獄舎か』相模書房、1972年
– 北山恒「再読『神殿か獄舎か』 1970年代、日本の都市に対して仕掛けた爆弾」『INAX REPORT』no.168, 2006.10, pp.16-17
– 藤森照信「解説」今和次郎『日本の民家』岩波書店、1989年、pp.333-351
この連載は、主に建築を勉強し始めたばかりの若い建築学生や、建築に少しでも関心のある一般の方を想定して進められますが、イラストとともに説明することで、すでに一通り建築を学んだ建築関係者も楽しめる内容になることを目指しています。
イラストを手助けに、やや難解な概念を理解することで、さまざまな思考が張り巡らされてきた、建築の広くて深い知の世界に分け入るきっかけをつくりたいと思っています。それは「建築討論」に参加する第一歩になるでしょう!
約2週間に1度、新しい記事が更新されていく予定です。また学芸出版社により、2017年度の書籍化も計画中です。
「建築思想図鑑」の取り組みに、ぜひご注目下さい。
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