これから先の建築界で重要になってくるのは、社会の高度なデジタル情報化にともなう建築の変化だと書けば何を今さらと思うだろう。一昔前ならそれはせいぜい設計ツールの進化が与える影響程度に捉えられていた。しかしコンピューターが限られた専門家のものだった頃はとうに過ぎ、今や小さな子供の手のひらに握られているスーパーコンピューターが世界中と通信しながら目にも止まらぬ速度で新たな情報をそこら中で紡ぎ出している事態が起きて、表面的には変わっていなそうな我々の世界の社会生活的側面は激変しており、建築そのものの持っている社会的意味自体が根こそぎ変わりつつあるからだ。
例えば「銀行」は金銭や証書を扱う場所でないどころか、電気信号化された経済的価値の所在はもはやデータセンターですらないかもしれない。地球の裏側で起こった事で突然全財産を失いかねないから、各地域支店担当者ではなくアルゴリズムが融資を判断することで物理的存在感の無い金融システムとなった。AirBnBがホテルという業態を、Uberがタクシーという業態を脅かし、TEDや自動翻訳のWeb情報の方が大学の講義に出席するより何倍も有益だと気の利いた学生が考える。建築の基本単位である住宅ですらそうだ。家族の大切な思い出の品は画像にとってクラウドにあげたら捨ててしまい、海外に住む高校時代の級友は家に訪ねてこなくても近況がわかり、家の広さや趣味の良さよりもSNSで公開する暮らしぶりこそが社会に対する自己実現に移行しつつある。商業施設がなくても商品は手に入るしスタジアムがなくてもオリンピックはできるだろう。社会を組織化する道具としての建築や都市の役割が安泰な訳がない。
こうした変化の背景で動いているのは単なる通信ネットワークではない。あらゆるものにセンサーがついて人間の行動、状態、意識、反応の全てを膨大なデータとしてひとときも休まず吸い上げ続け、人類には絶対不可能な超高速な計算による確率的な統計処理とデータマイニング方法で作成した情報が大多数の人間を無意識のうちに誘導し、誰も想像のできないような巨大な物流を最も効率的に制御できる能力が今この時も級数的に成長している。先に挙げたいくつかの事例は、ある人間が意図的にそれを構築しなくても、それぞれのプログラムの働きが自己組織的にこうした社会的な「振る舞い」を無限に拡張できる事を示している。社会にとってはこれが人工的な知性でなくて何であろうか。人工知能はロボットの姿でなく我々には不可視で、空気のようにどこにでも存在し、成長を止めない存在として既にそこにある。あなた好みの本も料理もあなたが病気になる可能性もあなたよりずっとよくわかっている。
それでも現実は現実として存在するはずで、五感で感じられる空間の体験にこそ人間にとっての建築の根源的な価値を見いだしたいと思うのだが、それすらもVR技術の猛追にあっていると言わざるを得ない。ヘッドマウントディスプレイの次には既に直接大脳と信号をやり取りする技術がもう開発中だ。幻覚でも見るように世界中の好きな場所をベストな状態で体験し空を飛ぶ事も海を潜る事も過去の人物と話す事もできる可能性は、「映画」として実現されたものの延長線上にあり、体験できる事の質より量の問題で言えば今でも圧倒的存在である。当然の事ながら現実には存在しない空間の体験もできるが、人間にとってさらに複雑なのは現実の一部を微妙に改変した体験や、バーチャル空間上の出会いのように現実の社会活動と複合した体験などを合成できる事にもある。幻聴や幻視を簡単に実現できる事には利便的な用途もあるにせよ、虚像と現実の境界を不明確にして記憶と理解に基づく人格の形成や社会的責任の所在そのものが問われてくるだろう。このような事態も決して現実とかけ離れた話ではなく、ネットゲームの世界でなら既にずいぶん前に起きている。
しょせん我々がこの世だと思っているものは脳が受けた外部信号の刺激に過ぎないのだとすれば虚と実に区別がないのは自明なのかもしれない。カレンダーをはじめとする検索可能なデータベースを自分の頭の外部記憶装置として頼り、ネット上の批判や同情に感情を突き動かされてしまっている時点で我々の思考はデジタルな情報処理と入り交じっている。自分自身の思考や主観ですら、どこまでがコンピューターの示唆や支援によるものであるのかも不確かになり、他者や社会といった客観的な根拠すらもデジタルに信号処理された虚像かもしれないのである。建築という「実」と情報という「虚」がさらに一体的に融合してしまう時代の中の「建築」が何であるのか、これからますます困難で本格的な文明論にならざるを得なくなるのではないだろうか。
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