建築家自邸シリーズ 001 内田祥哉邸
エスキスの思い出

建築家にとって、設計は楽しいことであっても、期限に迫られたり、無理な注文の多いときには、いやいやながら図面を書かなければならない。とはいっても「期限におかまいなし、予算もお望み通り」というような仕事はあり得ない。

学生時代なら、大抵の課題は期限はあっても予算に制限はなく、思う存分夢を書くこともできるのだが、学校を出ればそういう機会もなくなってしまう。

私が逓信省奉職時代には、設計課長の小坂さんが暇を見て「デザコン」というのをされた。これはデザイン・コンペティションの略で課題が出され勇姿が応募する。優秀な作にはささやかな賞がだされたようにおぼえている。「デザコン」がいつごろ始まったのかは知らないが、ふだん事務的な設計をしているものにとって、たいへんありがたい清涼剤であった。

何か周囲から課題をだされないでも、自分の問題をつくれば良いのだが、これはなかなかむつかしく、常人には実行しがたい。やはり設計はたのしくもあるが、おっくうな仕事なのだと思う。

だが、ここにおっくうにならない課題が1つある。それは自分の家である。これなら誰にでも夢があり、こうありたい、ああしたいという条件ものみこめている。そこで私は年に1つ自分の家のEsquissを作ることにしている。学生時代は月に1つという目標をかかげていたのであるが、いつのまにか、3月に1つになり、1年に1つになった。とくに何月に作るとはきめていないが、考えの浮かんだ時につくり、それを1/200に清書しておくことにしている。

年1作というのだから、もう10数枚あるのはずなのだが、いま手もとにあるのは5、6枚である。昨年突如として、本当に家をつくらねばならなくなってからは、以前の空想とはちがって、現実くさいものとなり、エスキスの数も再びふえた。そして最後は週1作、日1作となり、その転換のめまぐるしさで、工務店には多大なご迷惑をかけてしまった。

大学院の連中は1作毎に好意あふれる批評をしてくれたが、本当にほめてくれたものは1つもなかったようである。

図1-10 内田邸エスキス(出典「建築」1962年3月号青銅社)

図1-10 内田邸エスキス(出典「建築」1962年3月号青銅社)

1部屋毎に名前をつけることもできないではないが、実際には、もっと融通性のある使い方をしたいつもりであり、また、その辺をねらったところが普通の住宅とちがった点だろうと思う。これはわたしたちにとって便利だろうと思うのであって、一般に通用するかどうかはべつの問題である。

図10はそういう意図を現すために書いてみた。

南側に広縁をつけたのは、実はエスキスの歴史の最初からの構想であった。奈良十輪院の広縁や、関野先生が復原された藤原豊殿舎に心を引かれ、私としては処女作に当たる電電公社の中央学園の宿舎(1950年7月)に幅2mの広縁をつけた。当時はバタフライ屋根が盛んな頃であったから、多少奇異を好んだように思われがちであるが、それいらいずっと広縁への愛着はおとろえない。同じ学園のクラブ(1953年2月)にもつけた。その意味からだけではないが、谷口先生の集団山荘(軽井沢1955年)や、佐伯別邸(長野県1957年)もわたしの大好きな作品である。この家で1番ぜいたくをしているのはこの広縁だともいえるけれど、わたしにとっては千金に替えがたい所なのである。
さて、こうして現実に家ができてしまうと、案ずるより生むが易しという点もあるし、また生まれた子がかわいくなって、あばたも笑くぼに見えるところもある。しかし、これから先、再び年1作というふうにエスキスをつづけてゆけるだろうか? それを今考えている。(出典「建築」1962年3月号青銅社)

内田祥哉

東京大学名誉教授

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