岐南町庁舎(岐阜県)
素直に、腑に落ちない

■この小論は

小説を読むなら、答え合わせをするような経験は味気ない。計画者の意図を読み取ることにも面白みはない。かといって歴史ものなのか刑事ものなのかラブコメなのか、分からないまま物語を読み進めるのは恐ろしく不安。僕らはなにか分からないけれど面白そう、というとっかかりをもとに、選ぶ。どれだけ関係のない記憶(過去)や想像(未来)に繋がるか、その飛距離に望みをかけて、シークエンスを追ったり身を任せたりする。建物も、筆者にとっては殆ど同じ。そういう思いでの小論も読まれると良い。

■まず

「地方都市に常駐して公共建築の現場監理を担当したことを踏まえて」というオーダーのもと、データやテキストが発表される前に建物を見学して、この小論は書かれる。しかし、筆者の常駐した都市(広島県三次市)の人口密度は、岐南町の1/45(!)。面積は98倍(!!)。そういう違いがあることを踏まえて、素直に思い浮かんだことを、横道に逸れながら進んでいきたい。偏見に満ちた解釈となることをお許しください。

■暫定的に、わかりやすいこと/わからないこと

さてはじめの印象は、岐南町庁舎には、暗く、見通しがなくなるような隅がない、ということだった。消防署と庁舎棟の細長い隙間でさえ明るい。しかも、狭いながら屋根が最もくびれる所なので、壮観な造形が広がっている(狭いのに)。敷地を通り抜けられることを徹底したこの動線計画は、明るいということを、ひとまずわかりやすく表明していた。

平屋部分の駐車場に向いた立面には、RCスラブの腰掛けが連続している。緩やかで半径の大きい、ほぼ90度の円弧状の立面のどこかに腰掛ければ、自分が背にしている建物の一部が目に入ることが想像できる。平屋部分の中心にあたる室内の動線の交点には、缶コーヒーを買って休憩できるようなロビーがある。動線が緩く湾曲したT字状だから、外部とは逆に、廊下が続いているようだけれど先が見えない。見えることと見えないこと、単純な関係が構成の表裏にあるということが、とても素直に思える。

その動線が内外で途切れるところ、各棟の間に軒下がある。廊下とも広場とも言えそうな大きさの場所はどのように使われるのだろう。また、庁舎棟の各階の天井は、平屋部分とは異なる、漏斗状のRCスラブで構成されていた。どういう条件のもとで採用されたのだろう。天井面に印象的な幾何学がある、と言う点では平屋部分と関係を持っているようにも思える。これは、わからなかったことのいくつかのうちのひとつ。

■共有できないということの明るさ

わかること、わからないことが繰り返される。どこかで腑に落ちる、「あぁこの建物はこういうコンセプトでつくられたんだな」と思うこともある。推理小説のように伏線が回収される爽快さ、そういう読後感は、わかり合えた感触があるから気持ちがいい。彼はこういう嗜好で、こういう過去があったからこういう行動をするんだな、という必然性がある。

でも、ここで了解された以上の想像は、多分働かない。了解されて定着された彼には過去も未来もなく、現在しかない。

どこかで腑に落ちても、次にはまたわからなくなる、という体験ではどうだろう。昨日まで仲良くしていたのに、今日はそりが合わない。明日はまた何事もなかったように話せるかもしれない。不連続の出来事の間を埋めるように、定まらない過去と未来をとりあえず想像する。

共有できない(共有しきれない)ということは、あまりに生々しく僕らが気付きたくないことかもしれないけれど、同時にとてもドライで明るい考え方だとも思う。

■リアルであることとシークエンスの推進力

地方都市には(それに限らずともだけれど)唐突に組み合わされたもので出来た場所が山ほどある。僕らのまわりには、畳の上に敷き布団とソファが置かれるような唐突さがいくらでもある。ある時点では腑に落ちて、ある時点では腑に落ちない。その前後関係を暗に推測する時に、過去と未来、時間が思考の対象に挙る。

小説との類推を進めるなら、例えば、ガルシアマルケスの『百年の孤独』はそういう小説だと思う。ある一族が栄えて滅んでいく時間を記述していく物語で、孫とおじいさんの名前が一緒だったりするから、何度もわからなくなる。羽が生えた人間が、特に説明なく登場する。というか、居るということが記述される。神秘的な語りになりかねないのに、何故かとてもリアルで、わからないまま読み進めてしまう推進力がある。

わからないことを許すことができる世界のあり方の秘訣は、この推進力にある。かもしれない。

■スムーズなシークエンス

建築が都市的であるという時、その近くの要素を引用したり類型を用いたりする。周辺と連続している、という意味で自然な立ち方に思える。でも、負けているばかりではいられないこともある。

最寄りの岐南駅から歩いていくと、強烈に長く抽象的で、平屋の立面の半分以上を占める屋根の平側が見えて来て、その向こうに立方体をちょっと潰したくらいのボリュームがある。西日の強くなりかける夕方だったから、軒下は影が落ちていて、レフ板のように明るい屋根と、その軒下の影は長大なボーダーに見えた。まだ、何が起きているかはわからない。

そういう見え方の平側からはちょっと近寄りがたいから、断面があらわになった妻側の隅から、軒下を通ってとりあえず中央のエントランスだろうというところを目指す。この断面、早速、構成の種明かしになっている。

大きな屋根を内側から見る。最初に見ていた平側を、今度は軒下から眺め返す。

地方には日影がない、というとあまりにも大雑把にまとめすぎているかも知れないが、本当に(東京に慣れてしまった僕にとっては、比較すると圧倒的に)ない。公園もなかなか寂しい。土手は荒れている。それが自然の姿でもあるから文句はないけれど、そういう雰囲気が連続する街は歩く気分がおきない。「緑地とか中庭なんかいらないから、もっと室内をつくってくれ」とワークショップで言われてしまったことがあるが、調整された外部こそ、地方都市に足りていないのではないかな、と思う。カラッとした明るい雰囲気のなかに、日影をつくる。すぐそばを通る騒がしげな車の速度のなかに、少し距離をとるためのブラインド、余白をつくる。そういう自然な快適さがある。

さて軒下に戻ると。内側から見た大きな屋根の立面と、それよりもずっと配分の少ない、ハレーションを起こした外の風景は、確かに調整された外部にいることを印象づけていた。丁度、明暗のボーダーの関係が逆転している。

敷地の端に迎えにいくように伸びた屋根の妻面の隅から導かれた先には、こういう広場がある。歩くことは楽しいのである、とわかりやすく教えてくれているような屋根の身振りだった。

唐突に見えた建物のボリュームは、類型でも引用でもない、体験の記憶であちらとこちらが繋がり、スムーズなシークエンスになった。

この建築には多分、過去があり、未来があり、現在があり、出迎えてくれているような気もするのだけれど、彼の身なり格好の理由はわからない。彼には彼の今日があるし、私には私の今日があるだろうし。一瞬でも(一瞬であることに価値がある)彼の出自と格好を思う時間に、この建築のキモを感じて、「使われ方」という未来が楽しみになった。

■素直で、正確な。でも

だれでもそこに居て良いことを許す縁側のような場所を(大量に!)つくる。せめて敷地の端まで傘がなくてもいいように、あるいは日影を通って目的地までいけるように、屋根を延ばす。使われ方の違う施設を分けて管理できるように、適切な配置で分棟にする。でも、屋根のかたちはどのように、なぜ決まるのだろう。

■現代建築へ向けて

建築を設計する人たちが使う言葉は、普通の人に全然伝わらない。本当に伝わらない。それは全く逆にも思われているから、関係は不幸になるばかりである。

でも、わからないことを認めて、例えば、わからない理論でつくられてしまう日々のインテリアを生き生きとしたリアリティとして感じることはできないだろうか。

①低い大きな屋根は②日影をつくり③様々な意匠の事務所やホール、調理室を横断して架かっていた。差し当たり分類してみるなら①は構成、②は環境(光、音、、、)③はテイスト(内装の)。①のもとに②と③があるのは、モダンな方法論である。探偵小説のように1本の道筋で了解されるそこには、現在しかない。

かといって③テイストと②環境と①構成が等価にある、というのはどうも嘘くさい。どれだけ「フラットな世界」と言われようとも、体験することには必ず認識の順番や優劣が生まれる。①が③を拘束しないあり方で、例えば③が突飛に思える状態になったとしても②が全体の体験を統合していたら、それは異なるものが共存することを許す、おおらかな関係になるだろう。

岐南町庁舎につくられた日影をどのように読み、使い込まれていくのか。そこには「とりあえず」が連続する、不安定な関係の可能性があった。勿論、屋根だけではなく、庁舎棟と外構も加われば、いっそう広がりが生まれるが、それはまた使い込まれた時の解釈としたい。

■反する力

どうしようもなく生々しい、誰かが決めたテイストの組み合わせで溢れる生活が生き生きとするためには、それをいっとき統合してくれるなにかが必要だ。

構成が推進力として示されていて、テイストと環境が、わかったりわからなかったりしながら進んでいく。

バラバラであるものは反語的にバラバラでないものを必要としている。その間にある引力と斥力のようなものが、リアルな世界を硬直させない再描写の方法に思える。ナイーブになるなかれ。構成の役割が改めて問われているような気がした。

亀田康全

かめだやすまさ
1987年東京生まれ。2011年明治大学大学院理工学研究科博士前期課程修了。同年青木淳建築計画事務所入所。2011〜2014年三次市民ホール きりり担当。2013年8月から1年半、広島県三次市に常駐、現場監理業務に携わる。2015年同事務所所属。

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